肝付七右衛門家系図
年月日未詳 / 冊子 145~146頁/原整理番号 489
宮之城の肝付七右衛門家の系図。肝付兼賢(初め兼延)以下、兼種・兼明・兼孝らの分岐を示し、兼明が永禄四年七月十二日に戦死して法名を寛心浄円居士としたこと、兼孝が同日忠節のため切腹したことを記す。後段は島津紹益への付人、加藤左衛門家への婿入り・跡目相続、婚姻・養子関係を経て兼郷・孫三郎へ至る。
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年月日未詳 / 冊子 145~146頁/原整理番号 489
宮之城の肝付七右衛門家の系図。肝付兼賢(初め兼延)以下、兼種・兼明・兼孝らの分岐を示し、兼明が永禄四年七月十二日に戦死して法名を寛心浄円居士としたこと、兼孝が同日忠節のため切腹したことを記す。後段は島津紹益への付人、加藤左衛門家への婿入り・跡目相続、婚姻・養子関係を経て兼郷・孫三郎へ至る。
巻一/冊子 8頁
種子島加賀守恵時と子の左近大夫直時が不和となり、直時が貴久へ援助を求めた事件と、加治木攻めを併記する。貴久は新納伊勢守を大将に小勢を派遣し、軍は硫黄島を経て屋久島へ着く。恵時も種子島から来て身柄を貴久に委ねようとするが、貴久は他人の所領を貪らず、父子を和解させて帰島させたため、種子島氏は以後その恩を重んじた。後半では忠良・貴久が小浜から加治木城を攻め、真幸院の北原兼孝も加勢するが、北原方の周防介・洪江兵庫助ら七十余人が戦死し、島津勢は帰陣する。その後も小浜への侵攻が続いたため、忠良父子は敵を油断させる策として小浜の塁を本田方へ一時的に譲る。従来概要の「最終的な講和・服属」ではなく、初回攻撃の失敗と後日の誘敵策を記した記事である。
年月日未詳 / 冊子 105~111頁/原整理番号 21-1
冒頭に大原・平野・住吉三社を御姓神として本地仏と祖先下向以来の守護祈願を掲げ、兼経以下の肝付・萩原諸流を展開する神名書上兼系図。中世部では兼元の応永十七年島津元久上洛供奉・足利義持拝謁・河内守任官・加治木陣没、萩原城・萩原館・萩原庄主、高崇寺・帝釈寺などを記す。近世部では兼隆・兼義の川辺から加世田への移住と島津忠良への奉公、島津義弘の飯野移住への供奉・七十三石拝領、兼通の飯野から出水・軸谷外城への移住と物主役、禁制宗旨を理由とする宝暦五年の出水から高山への移住を述べる。末尾は高山新留村・下之門・宮下村の居住を経て、甚五左衛門が寛政十年十一月十三日に三十四歳で高山を出奔し、家系が断絶したことを記す。