江田兼吉差出
(寛永九年)七月廿八日 / 冊子 300頁
江田兼吉が、小姓一人を奉公に出すことの可否を伺い、騎士一人に付属させる鎧・鉄砲・弓矢・指物、夫丸・小姓・馬取、鞍道具・馬などの装備と供廻りを列記した差出。
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(寛永九年)七月廿八日 / 冊子 300頁
江田兼吉が、小姓一人を奉公に出すことの可否を伺い、騎士一人に付属させる鎧・鉄砲・弓矢・指物、夫丸・小姓・馬取、鞍道具・馬などの装備と供廻りを列記した差出。
7月28日 / 冊子 20~21頁/原整理番号 26
江田兼吉が知行高八十三石二斗五升を基礎に、小高ながら出陣時は乗馬奉公をすると申告する。鉄砲・弓・矢・鑓・具足・鞍道具・馬を現有するとし、不足分は上御定衆の裁定に従い次回に整える旨を述べる。
系図全体は無年次(正保2年・元禄6年の没年などを記載) / 冊子 601頁/原整理番号 104
加世田士前田軍八家の系図で、前田兵部左衛門兼政の三番目の弟兼長が加世田に住んだ系統をたどる。兼長の子兼高は主膳と称し、母を宮原吉兵衛の娘と記すほか、兼申・兼明・兼吉らの名乗り、正保二年の兼長と元禄六年の兼明の没年・法名を載せる。後代には医師となって元養と改名した兼周、兼貞・兼西・兼次郎らをつなぎ、河崎・加藤・樋渡・河野・堀之内の家との女子の婚姻も記す。前項の兼定から谷山へ移った前田宇兵衛家とは、兼政の別の弟を起点とする加世田居住の枝筋である。
年月日未詳 / 冊子 105~111頁/原整理番号 21-1
冒頭に大原・平野・住吉三社を御姓神として本地仏と祖先下向以来の守護祈願を掲げ、兼経以下の肝付・萩原諸流を展開する神名書上兼系図。中世部では兼元の応永十七年島津元久上洛供奉・足利義持拝謁・河内守任官・加治木陣没、萩原城・萩原館・萩原庄主、高崇寺・帝釈寺などを記す。近世部では兼隆・兼義の川辺から加世田への移住と島津忠良への奉公、島津義弘の飯野移住への供奉・七十三石拝領、兼通の飯野から出水・軸谷外城への移住と物主役、禁制宗旨を理由とする宝暦五年の出水から高山への移住を述べる。末尾は高山新留村・下之門・宮下村の居住を経て、甚五左衛門が寛政十年十一月十三日に三十四歳で高山を出奔し、家系が断絶したことを記す。
宝永4年5月25日改訂・御記録所提出(系譜記事は天文~享保年間に及ぶ) / 冊子 585~593頁/原整理番号 100
伴家肝属氏の近代の家系を兼続以下の枝筋までたどり、子女・養子・婚姻、家督、官途・法名、所領、戦死や寺院関係を記した長大な系図。冒頭に宝永四年五月二十五日、改訂して御記録所へ差し出したと記し、兼続の弘治二年の口宣、良兼らの志布志大慈寺・日州の寺院や位牌をめぐる記事、兼長らの地頭職・知行、兼道らの島津家との関係や慶長五年の戦死を載せる。後段には享保年間の太刀・銀馬代や家格に関する願い、僧籍に入った者、女性の婚姻・離別も記し、宝永四年の提出後にあたる年次の記事も含む。単なる直系表ではなく、分家・養子筋と後年の由緒主張を併記した点に特徴がある。