肝付兼亮起請文
天正二年 月 日 / 冊子 341頁
肝付兼亮が先非を改めて島津方を頼ることを述べ、廻・市成を献上する代わりに残る所領の永代安堵を願う。今後の無二の奉公、北郷・禰寝などから攻撃された際の救援、讒言があれば相互に知らせ弁明させることを求める起請文。
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天正二年 月 日 / 冊子 341頁
肝付兼亮が先非を改めて島津方を頼ることを述べ、廻・市成を献上する代わりに残る所領の永代安堵を願う。今後の無二の奉公、北郷・禰寝などから攻撃された際の救援、讒言があれば相互に知らせ弁明させることを求める起請文。
天正二年 / 冊子 324~326頁
天正二年の島津氏の動向を編年で記す。牛根城救援軍を茶園尾で退けて安楽備前守を降し、禰寝方面の伊東・肝付軍を撃退したほか、足利義昭からの援助要請、入来院重豊の献地、江月斎来訪、北郷時久への盟書、義虎・天草氏との交渉、菱刈氏の処分、肝付兼亮・伊地知重興の帰順などを載せる。
天正二年 / 冊子 326~327頁
天正二年正月、牛根城攻めで新納忠元が逆瀬川武安らに切岸を掘らせ、守将安楽兼寛を降伏させて互いに人質を交換し、二十二日に入城した経緯を記す。さらに親族関係を利用して其阿上人を使僧とし、伊地知重興・肝付兼亮の帰順と所領献上を仲介した功績、大口里村に十躰愛宕を建立したことを述べる。
天正二年 月 日 / 冊子 341頁
肝付兼亮が先非を改めた以上は互いに隔心なく、無二の奉公があれば見捨てず、島津家が困難な時には肝付氏を頼り、他方から不当な違乱があれば書状で事情を明らかにして助成すると誓う。
天正三年 / 冊子 393~394頁
天正三年の島津氏の動向を編年で記す。年始儀礼と椀飯、三度の犬追物、琉球使節の接遇、近衛前久の来薩、山田・入来境界の処置、肝付家の後継争いと高城・櫛間・志布志をめぐる伊東勢の動向、島津忠良の豊後帰還、近衛前久の出水到着などを載せる。
天正二年正月三日以後 / 冊子 331~332頁
天正二年正月三日の茶園尾合戦から牛根城開城までを詳述する。島津軍の進撃に肝付勢が敗走し、義久が狂歌を矢に付けて城内へ送り、逆瀬川奉膳兵衛らが切岸を掘って降伏を促した。新納忠元の入城後、其阿上人を使僧として肝付・伊地知両氏の帰順と城地の献上・再配分が実現した経緯を記す。
年月日未詳 / 冊子 105~111頁/原整理番号 21-1
冒頭に大原・平野・住吉三社を御姓神として本地仏と祖先下向以来の守護祈願を掲げ、兼経以下の肝付・萩原諸流を展開する神名書上兼系図。中世部では兼元の応永十七年島津元久上洛供奉・足利義持拝謁・河内守任官・加治木陣没、萩原城・萩原館・萩原庄主、高崇寺・帝釈寺などを記す。近世部では兼隆・兼義の川辺から加世田への移住と島津忠良への奉公、島津義弘の飯野移住への供奉・七十三石拝領、兼通の飯野から出水・軸谷外城への移住と物主役、禁制宗旨を理由とする宝暦五年の出水から高山への移住を述べる。末尾は高山新留村・下之門・宮下村の居住を経て、甚五左衛門が寛政十年十一月十三日に三十四歳で高山を出奔し、家系が断絶したことを記す。
年月日未詳 / 冊子 389~390頁/原整理番号 111
天正二年の牛根城攻略と肝付方の和睦を記す勲功記。安樂兼寛の守る牛根城を攻める際、忠元は逆瀬川らに岸を掘って道を通すよう指示し、幼い忠堯を城へ入れて兼寛の弟兼貫を人質として得た。十二日に城内へ入り四百三十余人を討ち、牛根領の獲得を忠元の功績とする。肝付方の当主らが没して勢力が弱まる中、忠元は兼純との親族関係や其阿上人を通じて和睦を勧め、二月に下城と五ヶ所を譲らせた。市成・廻・福山・恒吉の取得、先功の賞賛、愛岩建立と六月十四日の例祭も伝える。