上原某差出
年月日未詳 / 冊子 767頁
寛永十五年二月二十八日、有馬原城の本丸塀に取り付いたことを、市来五兵衛尉を証跡人として記した上原佐太右衛門尉の戦功証文。
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年月日未詳 / 冊子 767頁
寛永十五年二月二十八日、有馬原城の本丸塀に取り付いたことを、市来五兵衛尉を証跡人として記した上原佐太右衛門尉の戦功証文。
年月日未詳 / 冊子 320頁/原整理番号 364
上原佐太右衛門尚辰が、寛永十五年二月二十八日、有馬源(原カ)之城本丸の屏に着いたことを証する文書。市来五兵衛尉を証跡人に挙げる。本文に宛所はなく、目録年月日欄は空欄。編者注は『旧記雑録後編五』二一四四号文書と同文とする。
慶長5年9月15日、寛永15年1月13日・2月28日、貞享5年6月12日ほか / 冊子 277~278頁/原整理番号 108
上世不詳とする上原丹後守を祖とし、丹後守が日新公に仕えたのち中書家久に臣従し、日州佐土原で二百五十石を与えられたことから始まる上原氏系図。長野下総守の長男で上原家に入った佐太右衛門は慶長五年九月十五日の関ヶ原合戦で二十五歳で戦死し、法名を節義玄忠禅定門とする。尚辰は島津豊久に従って戦い、豊久戦死後に本城へ移り、寛永十五年正月十三日にわずか三人で米津へ至り、二月二十八日の島原で軍功を立てたと記す。後裔には傳左衛門尚堯、薬丸如水門下で示現流に関わり貞享五年六月十二日に能学寺で自殺した佐太右衛門尉、仁禮仁左衛門景治の二男である尚照らを掲げ、奉公・知行・戦死・養子の由緒を伝える。
二月廿九日 / 冊子 774頁
寛永十五年二月二十八日未刻、有馬春之城本丸へ乗り込み、敵一人を槍で討ち取ったことを、出水衆指宿内蔵助・井尻三郎右衛門尉の立会を挙げて、伊地知杢右衛門尉が二月二十九日に届けた差出。
二月廿九日 / 冊子 773頁
有馬原城の高さ三間ほどの石垣を登って塀に取り付き、市来八左衛門尉が槍で突き落とされたところを助け、貴島八左衛門尉へ引き渡したことを、上原佐太右衛門尉の証跡を挙げて届けた寺師与左衛門の差出。