島津忠長外三名連署加増目録
慶長六年十月廿一日 / 冊子 785-786頁
島津忠長ら四名が連署し、薩摩国祁答院の大村にある楠原弥七右衛門尉屋敷三十石二斗三升を、井尻伝次へ加増として宛行った目録。
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慶長六年十月廿一日 / 冊子 785-786頁
島津忠長ら四名が連署し、薩摩国祁答院の大村にある楠原弥七右衛門尉屋敷三十石二斗三升を、井尻伝次へ加増として宛行った目録。
(慶長五年)七月二日 / 冊子 549頁
島津惟新が少将殿に、内府の使者山口直友の命で小伝次兄弟三人と伏見で面会したことを報じる。源二郎母と子供三人が帰国を望み、源二郎も同意していると聞いたが、母が大坂城へたびたび推参して内府へ直訴したため早急な帰国を命じられたと説明する。帰国後に国人を惑わせ源二郎の心変わりを招く懸念はあるものの、上方に置けばさらに問題が深まるとし、兄弟の一人を当地に留めたい意向を伝える。
(慶長七年)九月一日 / 冊子 844頁
島津龍伯が忠恒へ、書状を披見し、小伝次に関する加藤主からの書状を探したが、謡本の類しかなかったと報じる。白石宗右衛門尉と伊地知甚左衛門尉にも調査を命じ、事情を相談したうえで知らせるとし、総右衛門尉の件も有方と相談して処置するよう述べた。
(慶長七年)九月三日 / 冊子 844-845頁
差出人不詳の覚書。前年十月に肥後へ派遣した両使、小伝次の企て、有方・左衛門尉らの動向、鹿児島での申し合わせ、使者や奉公人の処置、肥後宛書状の受渡しなど、内密の案件と関係者への申付を多数の条項に整理する。
11月21日 / 冊子 385頁/原整理番号 354の3
八端帆一艘の船頭弥伝次と水手九人へ、二十日分の海上飯米として赤米を渡す送状である。船頭に飯米を一括して受け取らせ、是枝喜右衛門へ伝達する。
11月21日 / 冊子 390~391頁/原整理番号 356の3
『飯米賦渡送状』は、十一月二十一日、大崎の船頭弥伝次へ赤米二斗、加子九人へ赤米一石三斗五升を割り当てる。末尾では、八端帆船の船頭・水手十人に同日以後二十日分の海上飯米を船頭一日一升・加子一人一日七合五勺で算用し、小松原から出水へ送る加勢船用として渡すよう三原源右衛門・永山覚右衛門へ命ずる。
(六月廿六日) / 冊子 129~130頁/原整理番号 480
野辺盛長を中心に一族の系譜と相伝事情を記した書。盛仁から平左衛門盛長、克盛、盛季へ続く系統、盛仁の娘と北郷忠能・敏久家との婚姻、伊豆守盛与以下の子孫を掲げる。後段では流野辺源太左衛門から野村金左衛門へ至る伝承、女子の婚姻、家督・跡目相続の経緯を述べる。六月廿六日付(年不詳)。
慶長八年七月晦日ほか / 冊子 47~48頁/原整理番号 3
伊地知季安が、川上久園から島津家譜編纂者への寛文二年書状を引き、伊集院小伝次の罪科記録が評定所にあったことと、家譜に採録されたか疑わしいことを考察する。続いて鹿屋兼長日記に見える関ヶ原後の伊集院側の肥後工作を紹介する。
慶長七年九月三日 / 冊子 52~53頁/原整理番号 10
肥後へ送った使者や後家・小伝次の企て、五人神文、阿多での申し立て、書状の授受と秘密保持など、前年からの交渉項目を箇条書きにした慶長七年九月三日付の覚。
二月廿九日 / 冊子 334~335頁/原整理番号 377
寅年二月二十八日、有馬之城本丸で戦った出水衆の軍功・手負を列記した注文。鑓を働かせた衆、刀討の衆、弓で射通した衆に分け、阿多六郎左衛門尉らの人名と、鑓疵・刀疵などを記す。寺領衆の池亀伝左衛門尉は鑓疵、本田蔵右衛門尉は刀疵として別記する。末尾に頭数百三十八、二月二十九日と記す。本文に差出・宛所はない。編者注は『旧記雑録後編五』二一六七号文書と同文とする。
清和天皇・源経基以降、慶長12年、寛文7年2月28日ほか / 冊子 281~290頁/原整理番号 112
源姓松本氏の系譜を、人皇五十六代清和天皇・貞純親王・源経基から源満仲・満快らを経て、伊那・林・芳美・松本などの諸支流へ展開して記す。松本氏部分では、行光・忠公・時光・満治・光家・光則・光信・貞行・光尚・景康・光後らの親子関係に、官途、居住地、法名、婚姻、養子、早世などを付記する。紀伊国雑賀庄湊の松本刑部については、武功により島津龍伯・惟新から恩顧を受け、上方との連絡や島津氏上洛をめぐる交渉に関与し、紀州帰還後も松本六郎左衛門を名代としてたびたび下向させたこと、長宗我部との連携、豊臣方の紀州攻め後の一族退去、藤堂和泉守・浅野紀伊守のもとでの知行・召出しを記す。別系の松本彦太郎は慶長十二年紀州生まれで、妙寿院大禅師に儒学、啓迪院陶室玄治法印に医術を学び、島津光久に供奉して病者を療治し、銀子や年々の台方米百俵を受け、江戸で三十年間、身分を問わず診療したとする。末尾は伝次郎・与右衛門・学之助・源右衛門・源之丞・弥一兵衛らへ続き、相良家への養子、四本・桑波田家との婚姻を載せる。
記載なし(文中に慶長七年八月十七日) / 冊子 42~46頁/原整理番号 1
伊地知季安が琴月様の養子願と伊勢貞昌の奉公を論じるため、持明様・久保様・琴月様の年齢と相続関係、関ヶ原後の上洛交渉を整理する。続けて盛香集から伊集院源次郎・小伝次兄弟の計策と、慶長七年八月十七日の兄弟・母の処断に至る条々を抜き書きする。