島津久房・松鶴誕生
年月日未詳 / 冊子 614頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書1499
綱久公御譜中の系図に、綱久の弟久房と妹松鶴を掲げる。久房は延宝元年四月十日生、母は家の女房で、千代徳丸・主馬・求馬と称し、異本には隠居昌栄とある。松鶴は同年十一月十九日生、母は家の女房で、家臣島津主水久輔の室となる。
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年月日未詳 / 冊子 614頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書1499
綱久公御譜中の系図に、綱久の弟久房と妹松鶴を掲げる。久房は延宝元年四月十日生、母は家の女房で、千代徳丸・主馬・求馬と称し、異本には隠居昌栄とある。松鶴は同年十一月十九日生、母は家の女房で、家臣島津主水久輔の室となる。
年月日未詳 / 冊子 617頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書1510
島津久房が延宝元年四月十日に濱田勘左衛門純昌の娘を母として生まれ、島津頼母久記と同母で島津光久の十七男であったこと、延宝七年に綱貴の加冠で主馬久房と改名し、兄久始が理髪を務め、翌年に光久の命で求馬と改名して衣服の紋を賜ったことを記す系譜記事。
年月日未詳 / 冊子 794頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書2091
光久の十七男求馬久房の譜中に、貞享四年七月二十七日、光久が隠居して下屋敷へ移る時、命により久房も供をして移ったと記す。
年月日未詳 / 冊子 925頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書2502
求馬久房譜中に、元禄八年二月三日、久房が郭内岩崎へ移居し、綱貴が阿多嘉左衛門忠秀を介して鴈一羽と御樽代二百疋を与えて祝ったと記す。
元禄十三年正月十一日ほか / 冊子 184–185頁/整理ID 658
求馬久房譜中。元禄十三年正月十一日に兄主馬久重の屋宅を賜り、従来の采地三百五十石に代え、新地一千石拝領の伝達を新納久寿から受けて謝したと記す。元禄十四年十一月十四日には綱貴の命で兄大蔵久明・頼母久記の家例に従い樹家し、平宗室の五男と記す。同年十二月十三日の城内琉銘御祈念には太守吉貴の命で御代を勤めたとする。
元禄十七年二月九日 / 冊子 462頁/整理ID 1595
求馬久房(光久十七男と注)の譜に、元禄十七年二月九日、綱貴が衣服の紋を自筆で書き、二階堂出右衛門行佐(小納戸役)を通じて与えたと記す。その図は十字の縦横の先が円外へ少し尖って出て、円内は丸く、外形は花輪のようであると説明する。
年月日未詳 / 冊子 551頁/整理ID 1892
島津久房が島津吉貴の厳命を受け、宝永二年正月十五日、末吉の住吉大明神と志布志の即心院へ代参した記事。即心院は島津氏六代氏久の菩提所であることも注記する。
七月廿六日 / 冊子 733頁/整理ID 2468
島津吉貴が鹿児島の諏訪大明神へ剣一振を奉納し、島津久房がその使者を務めたことを記す記事。使者の名を明記する点で、吉貴自身の寄進状とは異なる。
宝永六年十月三日~七年三月廿七日〈出府日月に原注ママ〉 / 冊子 874頁/整理ID 2864
求馬久房譜による。宝永六年十月三日、久房は仁礼仲右衛門頼常を通じ翌年の年頭賀使として江府へ赴くよう命じられ、黄金百両を賜って謹んで拝謝した。
享保十四年二月十一日 / 冊子 815頁/整理ID 2174
島津重年が享保十四年二月十一日に薩府城中で誕生したことを記す。幼名・称号の変遷と母の出自に触れる。
享保七年九月~十一月 / 冊子 583~584頁/整理ID 1460
継豊が家督・昇進に関わる謝恩使を江戸へ派遣し、到着後の登城、書付と贈品の提出、幕府からの拝領・帰国までの経過を記す。
享保七年九月~十一月 / 冊子 596頁/整理ID 1495
吉貴・継豊が謝恩使を江戸に派遣し、書付・進物の提出、登城、幕府への挨拶と帰国までの経過を記す。