長寿院盛淳・上井里兼連署知行目録
慶長二年六月二日 / 冊子 104~106頁
長寿院盛淳と上井里兼が連署し、本田助丞に薩州入来院裏谷内の屋敷・田畠を充行った知行目録。各地の上田・中田・下田・畠を面積と石高別に列挙し、合計を示す。
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慶長二年六月二日 / 冊子 104~106頁
長寿院盛淳と上井里兼が連署し、本田助丞に薩州入来院裏谷内の屋敷・田畠を充行った知行目録。各地の上田・中田・下田・畠を面積と石高別に列挙し、合計を示す。
(慶長四年)三月十四日 / 冊子 360~362頁
桂忠詮・上井里兼が、大坂出船後に出水へ到着し、鹿児島への通報と出水城の城祝を行ったことを報告する。肥後境目や各城・港、御牧と放馬、在々の侍・中間・百姓・職人の人数を調査し、城絵図・知行帳・目録を提出するとした。さらに寺沢志摩守の代官高嶋新三と百姓・入江・橋本との紛争、高嶋の逃亡、水俣の小西方への引渡しなど、出水郡の仕置と引継ぎの状況を詳述する。
慶長四年閏三月三日 / 冊子 365~366頁
幸侃成敗に関する諸相談の内容を一切漏らさず、伊集院源二郎をはじめ縁者・親類がいても庄内とは決して通用しないことを、上井里兼以下十四名が連署して誓う。違反すれば梵天・帝釈から霧島・新田八幡・鹿児島一宮・諏訪・愛宕など諸神の罰を受けるとする起請文。
(元和五年)八月四日 / 冊子 712~713頁
上井里兼・相良頼豊が、京都での家久の将軍拝謁と饗応、帰国許可、家久の姪の縁組、献上材木船や銀子の処置、京都での諸折衝などを国元へ詳報した連署状。
年月日未詳 / 冊子 360頁
一瀬崎野の御牧に三十余疋がいるため馬見廻役を定めて改めること、帖佐から二階堂伝右衛門尉・野添善兵衛尉を呼び寄せて調査させ、在々の放馬も念入りに捜すことを報告する。また出水城の構えを調べ、市来治右衛門尉に絵図作成を命じたと記す。
三月十四日 / 冊子 101~103頁
出水城の受領、肥後境界、各地の牧と馬数、城下から阿久根までの地勢、侍・百姓・職人の人数、豊臣秀吉朱印による人返し、旧代官との紛争、水俣の小西方との交渉など、出水郡接収後の総合調査を詳細に報告した連署状。
年月日未詳 / 冊子 711~712頁
八月四日、江戸から相良頼豊・上井里兼が、献上材木積載船の着岸、家久の妹の帰国許可、家久の姪の縁組などを喜入忠政・比志島国貞・三原重種へ報じたことを記す家久譜の記事。
慶長三年六月吉日 / 冊子 218頁
上井神五郎里兼が川上次郎左衛門尉に交付した加増分の知行方目録。薩州隈城西手村内の山下・山崎・中田・柿木原・瀬戸山などの田畑について、場所ごとに石・斗・升・合・勺で石高を列記する。
年月日未詳 / 冊子 224頁/原整理番号 161
慶長四年三月十四日付の書状。瀬崎野の御牧に馬三十疋がいるとの報告を受け、各地の牧の馬数や御馬追の用意を調べる。広い地域の馬数を直ちに確定するのは難しいため、見分を続けて追って報告すると伝える。
年月日未詳 / 冊子 221~222頁/原整理番号 157
『上井覚兼日記』天正十二年の記事。春山野の馬を藩主の所望に応じて牽き出し進上したこと、吉野の取駒をめぐる連絡や贈答を記す。馬の献上には使者を介した申し入れと返答が伴ったことが分かる。