長谷場越前自記
年月日未詳 / 冊子 42~43頁
島津方が菱刈陣を攻め、忠平自ら敵二人を斬り、村田越前守・三原右京亮らが奮戦、樺山助太郎らが戦死し、敵首三百余を挙げたとする。蒲生方は降伏して祁答院へ退去。境目で悪口過言を重ねた白尾半右衛門尉は落人に紛れたところを猿渡大炊入道に捕えられ、口を裂き舌を抜かれたという苛烈な処罰も記す。戦後の蒲生・帖佐・山田・松坂以下、大隅各地の地頭・領主配置を詳述する。
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年月日未詳 / 冊子 42~43頁
島津方が菱刈陣を攻め、忠平自ら敵二人を斬り、村田越前守・三原右京亮らが奮戦、樺山助太郎らが戦死し、敵首三百余を挙げたとする。蒲生方は降伏して祁答院へ退去。境目で悪口過言を重ねた白尾半右衛門尉は落人に紛れたところを猿渡大炊入道に捕えられ、口を裂き舌を抜かれたという苛烈な処罰も記す。戦後の蒲生・帖佐・山田・松坂以下、大隅各地の地頭・領主配置を詳述する。
年月日未詳 / 冊子 36~37頁
弘治三年の島津氏関係事績を編年で記す。四月十五日、貴久父子らが北村の菱刈陣を攻め、忠平が先登して楠原某を討ち、火矢で塁壁を焼いて陥落させた。忠平は重傷、菱刈左馬権頭は自害。十七~十九日、蒲生範清が降伏し、貴久は降人を殺さず祁答院へ送った。蒲生・松坂・帖佐・山田の地頭配置、後奈良天皇崩御・正親町天皇践祚、南林寺建立も記す。
年月日未詳 / 冊子 44頁
弘治三年四月十五日、島津貴久父子らが蒲生を救援する菱刈氏の陣を攻めた記事。険阻な陣で忠平が敵将楠原某を討ち、島津軍が陣を陥れて多数を斬り、四月二十日に蒲生方が城を焼いて退去した経過を記す。
年月日未詳 / 冊子 44~45頁
蒲生を救援して北村境に築かれた菱刈氏の陣を、弘治三年四月十五日に島津軍が攻めた経過を記す。忠平(義弘)が楠原某と一騎討ちして首を取り、陣を攻め落としたが、自身も刀傷を負って退いた。
永禄十一年二月廿八日~三月廿三日 / 冊子 192~193頁
永禄十一年二月二十八日、小苗代原で敵が不意に出た際、新納忠元が薬師堂の板に詩句を書き終えるまで動かず、家臣久保勝八に引き退かされた直後、竹添丹後守の鑓で左脇を突かれた逸話を載せる。忠元はなお敵三人を討ち、自身も六箇所の傷を負ったため、貴久から使者を通じて感賞と見舞いを受けた。三月二十三日の曽木・市山攻撃では、未平癒ながら出陣し白坂と永福寺口の守備を指揮した。
年月日未詳 / 冊子 58頁/原整理番号 54
天正六年九月十一日未刻、山東へ向けて発向した際の供奉次第を記す。御剣を本田紀伊守、御幡役を三原右京亮、旗指を色紙金右衛門が務め、鹿児島の人数まで召し連れ、まず諏訪社へ参詣して直ちに出立した。
年月日未詳 / 冊子 401~402頁/原整理番号 131
天正四年の三之山などの退去と、島津方の番衆・祝宴を記す日記。仲秋二十三日に城を退いたが伊東の迎えが来ず、二十四日には敵が三之山と須木を捨てたため番を置いた。二十五日に忠平が三之山へ籠もり、翌日は一門・諸地頭が談合し、二十八日に太守が出向いて川田駿河守が太平を祝った。山田新助・三原右京亮の膳と三献、忠元を含む参会者の太刀進献を挙げる。次第は残っておらず、夜は飯野へ赴いたと記す。
年月日未詳 / 冊子 406~407頁/原整理番号 138
川上久辰の耳川合戦日記。天正六年九月十一日の山東への出陣に本田紀伊守・三原右京亮らが旗役を務め、鹿児島などから供衆を集めた。忠元の使僧や諸所の使者を通じ、高城・野尻・紙屋などの番衆交代、雑務の分担、参陣と御陣の人数を調整する。大軍が押し寄せる高城へ軍勢を差し籠め、石之城を得た際の祝言や太刀などの進献も記す。終盤には猿渡らの使僧、山下造酒の中国鉄山からの帰帆報告と進献を載せる。
年月日未詳 / 冊子 361~362頁/原整理番号 65
馬越から一山を見廻った時、大口の四千人ほどが二手に分かれて襲来したことを記す。小苗代原では肝付が諸隊に指示し、弓と鉄炮で戦った。一山地頭の忠元は白坂口へ出て的場五藤と戦い、大太刀を振るったが、五藤は負傷して退いた。続く諸隊の働きと忠元の鎧の損傷、敵の撤退を記し、三原・長谷場を使者として軍労に礼を述べたことを伝える。
年月日未詳 / 冊子 366~367頁/原整理番号 71
忠元が市山から馬越へ戻る途中、敵城の物見がいたため小苗代原へ回り、薬師堂で休んだ記事。壁に詩を書いている間に敵が近づき、家臣が知らせても書き終えるまで動かなかった。丹後幸が鎧を引いて救い、忠元は刀を抜いて家臣と防戦し、身体に六箇所の疵を受けながら敵を討った。忠長らの救援と褒美、続く曾木・市山・永福寺での守備と軍功も記す。
天正四年八月十六日 / 冊子 235頁/原整理番号 15
高原城攻めの出陣に際し、旗役を三原右京亮が務めたことを記す。日向への進軍、城攻めと帰陣の経過の中から、旗役に関する記事を抜き出す。
本文年月日未詳 / 冊子 235頁/原整理番号 16
三原家の系図を引き、前項の旗役三原右京亮を三原重包に比定する。父祖・子孫の名乗りと日向出陣時の役目を記し、三原家への旗役継承を示す。
天正五年十二月十三日 / 冊子 235頁/原整理番号 17
天正五年十二月の日向出陣で三原右京亮が旗役を務め、紙屋で御旗を立てた記事を引く。旗役の実際の行動を日々記で確認する。
天正六年九月十一日 / 冊子 236~237頁/原整理番号 20-1
天正六年九月の出陣記事から、御旗・御太刀を持つ人員と出立の手順を引く。三原右京亮・本田らの役目を日々記の記録によって確認する。