HONPAN JINBUTSUSHI · SOURCE ARTICLE
島津忠清
異名・検索語:島津忠清/島津備前守忠清/備前守/又助/如岳院節翁玄忠大禅定門
この解説は『本藩人物誌』の記事内容を整理したもので、一般的な人物伝や他史料を含む史実認定とは区別してください。今後の精読・原画像照合により更新される場合があります。
DESCRIPTION
本文内容説明
島津備前守忠清(又助)は義虎の三男で、元亀二年に出水で生まれた。母は義久の娘と本文に記すが、入来院氏とする異説の注記がある。文禄二年、兄忠永と同じく小西行長の預かりとなり、肥後宇土に住んだ。行長家臣の娘を妻に迎え、一女一男をもうけた。関ヶ原後、行長の処刑と宇土没収により加藤清正を頼って熊本へ移住。義久の帰国命令を受け、常久の迎船で慶長十四年十二月三日に子二人と阿久根へ着き、鹿児島へ帰参した。娘は家久に仕え光久を産み、男子又助は新納家を継いで近江守忠影と称した。忠清の家はのち忠影の孫久基が継いだ。元和六年正月五日、五十歳で没。法名は如岳院節翁玄忠大禅定門。没地は記されない。
系譜・人物関係
義虎三男。母は義久の娘と本文にあるが、又太郎御改として入来院氏説の注記。妻は行長家士皆吉久右衛門続能の女と読める(父の諱は公開本文に採らず)。一女一男。娘は家久に仕え光久を産む。男子又助は新納近江守忠影。忠影の孫で新納市正久珍の二男孫四郎久基が忠清の後嗣。兄忠永と弟忠富・忠豊の注記を本人と区別。
奉公・役職
文禄二年、兄和泉又太郎忠永と同前に小西摂津守行長の預かりとなる。肥後宇土居住。行長死後、加藤清正を頼り熊本へ。義久から帰参を命じられ、島津下総守常久が迎船を差し越す。慶長十四年十二月三日、子二人と阿久根着船、鹿児島へ参上。近江守は子忠影であり本人は備前守。
軍役・事績
本文の中心は宇土・熊本居住と帰参、子女・家督の由緒。本人の合戦での具体的軍功は記さない。関ヶ原は行長伏誅・宇土没収の背景であり忠清本人の出陣を意味しない。
生没・法名等
元亀二年、出水生。元和六年正月五日没、五十歳。如岳院節翁玄忠大禅定門。没地・死因・墓所の記載なし。娘について寛永二年七月二十一日江戸卒二十六歳の注記あり(忠清の没地に移さない)。
- 統合人物ID
- HP-1309
- 原人物ID群
- 10-189-01
- 氏・分類
- 島津
- 掲載巻頁
- 巻10:189
- 主題・活動
- 系譜・奉公・役職・軍役・生没
- 人物関係要約
- 義虎三男。母は義久の娘と本文にあるが、又太郎御改として入来院氏説の注記。妻は行長家士皆吉久右衛門続能の女と読める(父の諱は公開本文に採らず)。一女一男。娘は家久に仕え光久を産む。男子又助は新納近江守忠影。忠影の孫で新納市正久珍の二男孫四郎久基が忠清の後嗣。兄忠永と弟忠富・忠豊の注記を本人と区別。
- 検索キーワード
- 島津忠清/備前守/又助/義虎/義久/小西行長/宇土/加藤清正/熊本/常久/阿久根/慶長十四年/家久/光久/新納忠影/新納久基/出水/元和六年/如岳院節翁玄忠大禅定門
- 公開区分
- 公開可
- 精読・確認状況
- 従来記録:精読済(今回の再精読は未実施)
- 公開判定根拠
- 従来判定を継承。新基準による個別再判定は未実施。
- 説明作成区分
- AI用PDF全頁精読
- 本文境界判定
- 現行AI用PDF全1頁を400dpiで全視読。島津備前守忠清・又助の見出しから如岳院節翁玄忠大禅定門まで。冒頭の兄弟系譜注と後半の娘・男子又助・後嗣久基は忠清の由緒を説明する関連記述であり、別見出しの混入ではない。〇印は同伝の追記事項。PDF変更・新規採番なし。
- 判読保留
- 帰国年は慶長十四年と明読し、旧慶長六年を訂正。母は本文と注記に異説があり両説の存在を明示。妻の父の諱の逐字確定、娘の法名の細字は保留し公開本文に採らない。兄弟の生没注は本人に転記しない。主要経歴・帰参・子孫・本人生没と法名の確認範囲で公開可。
出典:『鹿児島県史料集 第13集 本藩人物誌』