HONPAN JINBUTSUSHI · SOURCE ARTICLE
町田図書頭久幸
異名・検索語:町田久幸/町田図書頭久幸/肥後勝兵衛盛吉/肥後勝兵衛尉盛吉/助太郎/勝兵衛尉/江山隣月庵主
この解説は『本藩人物誌』の記事内容を整理したもので、一般的な人物伝や他史料を含む史実認定とは区別してください。今後の精読・原画像照合により更新される場合があります。
DESCRIPTION
本文内容説明
町田図書頭久幸は出羽守久倍の二男で、助太郎・勝兵衛尉とも称した。初め肥後山城守の養子となり、勝兵衛盛吉と名乗った。肥後権之丞盛秀から嫡家を譲られたが、後に町田家へ戻り、子のない実兄忠綱の養子となって跡を継いだ。朝鮮へ渡海し、巻八には黒威の鎧で泗川の役に功があったと記す。庄内の陣にも出立した。慶長十六年頃、家久の家老に任じられ、十八年に江戸へ上った。二十年三月九日、二原備中守の代わりに江戸を発ち、四月朔日に上京、二十二日に加治木へ帰着。寛永元年正月十七日、江戸で没した。法名は江山隣月庵主。巻十二の「肥後勝兵衛盛吉」は同人の記事である。
系譜・人物関係
巻十二は町田出羽守久倍の二男、山城守養子、助太郎、肥後勝兵衛盛吉と記す。盛親の傍記は残るが、改名の順序・意味は確定しない。肥後権之丞盛秀から嫡家を譲られた後に去り、町田の実兄の跡を継いで図書頭久幸を号す。巻八は忠綱養子・実は弟・初め肥後氏養子と一致し、同一人物として既存統合を維持。居住村名は花棚/花綱の字形を保留。妻母・生年の記載なし。
奉公・役職
慶長十六年比(頃)、家久の家老役を命じられる。十八年江戸へ罷登る。二十年三月九日に江戸を立ち、二原備中守の代として上る旨の小注。四月朔日上京、同廿二日加治木に着く。元禄年中高帳の石高小字は後代の台帳付記であり、本人の生前領知高として説明へ転記しない。
軍役・事績
両巻とも朝鮮渡海を記し、巻八小注に朝鮮に従軍し泗川の役で黒威鎧にて功ありとする。庄内陣に出立。敵討取数・個別合戦日・指揮官等は本文から追加しない。
生没・法名等
寛永元年正月十七日、於江戸卒。法名は江山隣月庵主と確認。生年・享年・墓所は当該二条に明記がなく、加治木帰着を墓所・没地へ転用しない。
- 統合人物ID
- HP-1173
- 原人物ID群
- 08-129-03/12-227-15-02
- 氏・分類
- 町田
- 掲載巻頁
- 巻8:129~130/巻12:227
- 主題・活動
- 系譜・奉公・役職・軍役・生没
- 人物関係要約
- 巻十二は町田出羽守久倍の二男、山城守養子、助太郎、肥後勝兵衛盛吉と記す。盛親の傍記は残るが、改名の順序・意味は確定しない。肥後権之丞盛秀から嫡家を譲られた後に去り、町田の実兄の跡を継いで図書頭久幸を号す。巻八は忠綱養子・実は弟・初め肥後氏養子と一致し、同一人物として既存統合を維持。居住村名は花棚/花綱の字形を保留。妻母・生年の記載なし。
- 検索キーワード
- 町田久幸/町田図書頭/久倍二男/忠綱弟養子/肥後勝兵衛盛吉/助太郎/山城守養子/盛秀嫡家/朝鮮渡海/泗川黒威鎧軍功/庄内陣/慶長十六年頃家老/家久/江戸/二原備中守代/上京/加治木帰着/寛永元年正月十七日江戸没/江山隣月庵主
- 公開区分
- 公開可
- 精読・確認状況
- 従来記録:精読済(今回の再精読は未実施)
- 公開判定根拠
- 従来判定を継承。新基準による個別再判定は未実施。
- 説明作成区分
- AI用PDF全頁精読
- 本文境界判定
- 巻八の旧AI全2頁、巻十二の全1頁を視読。巻八は冊子129頁下段から130頁上段へ続き、久幸の見出しから江戸没・法名まで。次の町田源左衛門久政との間を調整して通常・AI各2頁を余白付き再裁断し全頁確認。巻十二は肥後勝兵衛盛吉の独立見出しから朝鮮渡海までの1頁で、山城守・盛秀の前項は混入しない。二条は出自・養子と実兄相続・久幸の名が一致。同一ID維持、新規採番なし。
- 判読保留
- 巻八の出典を冊子129~130頁・PDF63~64頁へ訂正。法名江山隣月庵主を確認。盛親の傍記の意味、居住村名の花棚/花綱、元禄年中高帳の数値細字を保留。持高は没後年代の付記として本人の生前石高を断定しない。養子・家老・軍役・江戸没を確定事績として公開可。巻十二の別人肥後蔵人盛吉と混同しない。
出典:『鹿児島県史料集 第13集 本藩人物誌』