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HP-1156巻之四58~59頁注記付き公開可

HONPAN JINBUTSUSHI · SOURCE ARTICLE

中馬重方

異名・検索語:中馬重方/中馬大蔵允重方/大蔵/興八郎/与八郎

試験導入中の史料別人物解説です

この解説は『本藩人物誌』の記事内容を整理したもので、一般的な人物伝や他史料を含む史実認定とは区別してください。今後の精読・原画像照合により更新される場合があります。

注記付き公開可

朝鮮渡海の年を本文は天正十九年と記す。年記は訂正せず留保する。/法名の第一字は精査保留。/下之城攻めの記事の日付は細字のため判読保留。/高岡への召移小注は本田兵右衛門に続くため重方の移住歴には用いない。

DESCRIPTION

本文内容説明

中馬大蔵允重方は惟新公に仕えた武士で、中馬大蔵の子。初め興八郎。十八歳で矢崎城攻めに加わり敵二人を討ち、堅志田・下之城でも戦功を挙げた。市来地頭時の不首尾で知行・屋敷を没収され蒲生に蟄居したが、朝鮮渡海に際し赦免された。慶長三年の南海の海戦では強弓の矢を射尽くして敵船へ乗り移り、多くの首を取って亡父の名・大蔵を継いだ。慶長五年、出水から関ヶ原へ急行し、惟新公の退却に従った。帰国後、五十石と感状を受け、出水武士役・脇元御仮屋守を務めた。寛永十二年十二月二十八日、七十二歳で没。墓は出水西目村瀬々浦。子に兵部左衛門重辰がある。

系譜・人物関係

前条中馬大蔵の子。初興八郎(本文に与八郎とも記す)。海戦の戦功後、亡父の名大蔵を継ぐ。子は兵部左衛門重辰。

奉公・役職

惟新公に奉仕。市来地頭時の不首尾により知行屋敷没収、親類附で蒲生蟄居。毎月米二俵を与えられた。渡海時に赦免、妻子の抱米三十石。出水武士役・脇元御仮屋守。

軍役・事績

天正八年十月十五日、十八歳で矢崎城攻めに比志島紀伊守手として加わり敵二人を討つ。佐敷・甲佐堅志田・下之城で従軍。下之城では塀を越えて猛将を討った。慶長三年十一月十八日、南海の番船を破る海戦で川上掃部の船から敵船へ乗り移り多くの首を取る。慶長五年、川上四郎兵衛の船に間に合わず九州を急行して関ヶ原合戦前に着陣。退却に供奉し、御馬印を途中で捨てることを申し上げたと記す。旅宿では足軽二人を連れて夜中に三度巡回した。帰国後五十石・感状。大男で強弓を射、一生薄手も負わなかったとする。

生没・法名等

寛永十二年十二月二十八日、七十二歳で没。法名は貫翁道一居士と読めるが第一字は精査保留。墓は出水西目村瀬々浦。没地の記載はない。

統合人物ID
HP-1156
原人物ID群
04-058-03
氏・分類
中馬
掲載巻頁
巻之四58~59頁
主題・活動
軍役・朝鮮海戦・関ヶ原退却・出水での奉公
人物関係要約
前条中馬大蔵の子。初興八郎(本文に与八郎とも記す)。海戦の戦功後、亡父の名大蔵を継ぐ。子は兵部左衛門重辰。
検索キーワード
中馬重方/大蔵允/興八郎/与八郎/惟新公/中馬重辰/市来地頭/蒲生/矢崎城/堅志田/下之城/朝鮮/南海/関ヶ原/出水武士役/脇元御仮屋守/瀬々浦
公開区分
注記付き公開可
精読・確認状況
通常・AI用PDF全3頁と原冊を照合。分離後全頁確認済。
公開判定根拠
子重辰の付記を保持し独立人物2条を分離。年記・細字の留保を明記して本文位置へ案内可能。
説明作成区分
AI用PDF全頁追加精読・原冊照合・境界分離
本文境界判定
原冊58頁上段の〇見出しから59頁上段の其子兵部左衛門重辰ト云まで。重辰付記は親族記事として保持。続く朱書一調所佐二郎武金・一知覧四郎左衛門を別人物として分離し、遠之部を除外。
判読保留
朝鮮渡海の年を本文は天正十九年と記す。年記は訂正せず留保する。/法名の第一字は精査保留。/下之城攻めの記事の日付は細字のため判読保留。/高岡への召移小注は本田兵右衛門に続くため重方の移住歴には用いない。

出典:『鹿児島県史料集 第13集 本藩人物誌』