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HP-1102巻1:19–20注記付き公開可

HONPAN JINBUTSUSHI · SOURCE ARTICLE

池田貞秀

異名・検索語:池田貞秀/池田六左衛門貞秀/六左衛門/貞秀/孝翁永忠居士

試験導入中の史料別人物解説です

この解説は『本藩人物誌』の記事内容を整理したもので、一般的な人物伝や他史料を含む史実認定とは区別してください。今後の精読・原画像照合により更新される場合があります。

注記付き公開可

未確定事項:享年は主文62歳、旁注に61歳の異記。役職の足軽大将にも軍奉行の異注がある。/主文は蒲生永興寺葬だが、加治木古老物語の大林寺葬を併記する。寛永14年の大林寺移転・長年寺への改称に伴う改葬は本文の推測であり確定しない。引用書名の一部細字は判読保留。/永興寺墓銘の元和2年3月は本文が四年前の建立と説明しており、殉死年を元和2年に変更しない。

DESCRIPTION

本文内容説明

池田六左衛門貞秀。若年から惟新公に従い真幸へ移る。天正年間の軍談合衆54人の一人。伊東合戦・肥後堅志田・豊後出陣で働き、小田原では久保公の馬別当を木村主殿と務めた。朝鮮では鹿の飛び出しを敵の気配と察し、保っていた火縄の火を仲間に分けて襲撃に備えた。庄内では退却の使者を三度務め、味方を見捨てず敵の空いた城を攻めるよう進言した。慶長5年に出水の足軽大将となり100石加増。元和5年8月16日、加治木実窓寺川原で禁令に背いて殉死。本文62歳、旁注に異記。法名孝翁永忠居士。所帯は没収されたが寛永9年7月6日に家財返還。蒲生永興寺葬、妙円寺地蔵塔は第三番目と記す。

系譜・人物関係

見出し小注は池田大学左衛門の弟・土佐守の子と記す。本人は六左衛門貞秀、飯野と記す。生年は不記載。

奉公・役職

若年から惟新公に従い真幸へ移る。天正年間軍談合衆54人の一人。小田原では久保公御供、木村主殿と御馬別当、騎馬16騎の一人。慶長5年出水境目へ移り足軽大将(軍奉行の異注)、100石加増。

軍役・事績

伊東合戦・肥後堅志田の首級・豊後御供。朝鮮は帰朝後に久保公に再召され再渡海。皆が火を消した中で火縄の火を保ち、鹿2匹が飛び出したのを敵の気配と考えて皆へ分火し、敵襲を共同で防ぐ。その晩伊勢貞昌から礼を受ける。久保公遺骸と帰朝し鹿児島から高野まで御供。庄内では豊久から三度退却使者を命じられたが、味方を見捨てず敵兵が出た城を攻めるよう進言。全軍で新城本城を攻略し本人も分捕、伏見の惟新から感状。殉死で家久の怒りを受け所帯没収、寛永9年7月6日家財返還。

生没・法名等

元和5年7月21日惟新公逝去、同年8月16日加治木実窓寺川原で禁令に背いて殉死。62歳(61歳異記)、法名孝翁永忠居士。蒲生永興寺葬、伊集院妙円寺殉死者地蔵塔の第三番目。永興寺墓銘元和2年3月は四年前建立との説明あり。加治木古老物語の大林寺葬と、寛永14年の移転改称に伴う改葬推測を併記。

統合人物ID
HP-1102
原人物ID群
01-019-07
氏・分類
池田
掲載巻頁
巻1:19–20
主題・活動
系譜・奉公・役職・軍役・生没
人物関係要約
見出し小注は池田大学左衛門の弟・土佐守の子と記す。本人は六左衛門貞秀、飯野と記す。生年は不記載。
検索キーワード
池田貞秀/六左衛門/伊東合戦/堅志田/小田原/木村主殿/久保/惟新/火縄/庄内/豊久/出水/足軽大将/軍奉行/殉死/実窓寺川原/孝翁永忠居士/永興寺/妙円寺/大林寺/家財返還
公開区分
注記付き公開可
精読・確認状況
旧AI・通常各全2頁、原冊19・20頁、見出しと殉死部分拡大、修復AI・通常各全2頁を確認。
公開判定根拠
軍功・火縄の逸話・庄内での進言・殉死後の処置を具体化。享年・役職・埋葬先の異記を明示して公開可。
説明作成区分
AI用PDF全頁追加精読・原冊照合・境界修復
本文境界判定
旧AI・通常各全2頁、原冊19・20頁と見出し・殉死箇所の拡大を照合。一池田六左衛門貞秀から末尾改葬センまで一記事。1頁目は右上の前項入佐勘八を除外しつつ右下の父系小注を保持する段差境界へ修復。2頁目は左側の墓・改葬の細字2列を全て保持し余白を縮小。修復通常・AI各全2頁を確認。次の○池田治助の記事を含めず、記事内部の別人事績による新規分割は不要。2頁・既存ID・旧OCR維持。
判読保留
享年は主文62歳、旁注に61歳の異記。役職の足軽大将にも軍奉行の異注がある。/主文は蒲生永興寺葬だが、加治木古老物語の大林寺葬を併記する。寛永14年の大林寺移転・長年寺への改称に伴う改葬は本文の推測であり確定しない。引用書名の一部細字は判読保留。/永興寺墓銘の元和2年3月は本文が四年前の建立と説明しており、殉死年を元和2年に変更しない。

出典:『鹿児島県史料集 第13集 本藩人物誌』