HONPAN JINBUTSUSHI · SOURCE ARTICLE
松岡勝兵衛
異名・検索語:松岡勝兵衛/神下休五郎/休五郎/勝兵衛
この解説は『本藩人物誌』の記事内容を整理したもので、一般的な人物伝や他史料を含む史実認定とは区別してください。今後の精読・原画像照合により更新される場合があります。
DESCRIPTION
本文内容説明
松岡勝兵衛は山中岩助の三男で、初め神下休五郎と称した。伊勢国の木造大膳の聟養子となり、信長没後は浪人した。子の千熊が伏見で島津義弘に召し抱えられた縁から薩摩へ下り、松岡勝兵衛に改名。慶長五年八月の松丸口攻めでは久留休斎と脇奉行を務め、鎗で矢狭間を塞いだが、銃弾が草摺を貫いて重傷を負い、義弘が毎日見舞って薬を与えたという。大垣への供奉を断念し、大坂に残され六十石を受けた。関ヶ原後は義弘夫人の帰国に妻子と随行し、途中で乗物を差し出して馬を与えられた。帖佐に屋敷を給され、五百石を受けたと記す。蒲生城普請を指図し、慶長十一年に平松、十二年に加治木へ移った。生没年・法名・墓所は記されない。
系譜・人物関係
山中岩助の三男。初神下休五郎、伊勢国木造大膳の聟養子、子は千熊。父岩助の戦死地小注と木造大膳に続く細字は確定しない。独立した〇松岡千熊伝を08-133-07-02/HP-2133として分離。子の十三・十四歳、十五人扶持、百石、関ヶ原供奉を父の事績に含めない。
奉公・役職
子千熊の義弘召抱えを機に薩摩へ移り松岡勝兵衛へ改名。薩摩へ来る前に北国の人物から五百石の約束があり、義弘側は当初二百石と申し出たとする段落があるが、相手名の本文・丹羽との小注および字不審の注を留保。負傷後大坂に残留し御蔵米六十石。帰国後帖佐に屋敷、伏見での三百石の約束に対し五百石を拝領と記す。蒲生城普請で指図を命じられ、岩堅井川北の屋敷へ移住。川名の現代比定は補わない。慶長十一年平松移住、十二年加治木へ召移。
軍役・事績
慶長五年八月朔日、松丸口攻めの脇奉行を久留休斎と務める。松丸口門へ人員を付け、鎗で矢狭間三、四箇所を塞ぐ。城内の敵に鎗を取られたが引き勝ち、城内からの鉄砲で倒れ、草摺を打ち抜かれ十死一生で引退。義弘が毎日見舞い薬を与え、重傷で大垣供奉はできず大坂に残る。関ヶ原後、義弘夫人の帰国に妻子と随行し細島で着船。御上様の乗物が豊後の森で焼かれたため妻の乗物を差し出し、八代で返され、その間馬を与えられた。後に上方勢来襲の風聞があり蒲生城普請に従事。
生没・法名等
生没年・没地・法名・墓所は不記。慶長十一年平松、十二年加治木移住は居住記録で、死没の記載と混同しない。
- 統合人物ID
- HP-0734
- 原人物ID群
- 08-133-07
- 氏・分類
- 松岡
- 掲載巻頁
- 巻8:133
- 主題・活動
- 系譜・奉公・役職・軍役・生没
- 人物関係要約
- 山中岩助の三男。初神下休五郎、伊勢国木造大膳の聟養子、子は千熊。父岩助の戦死地小注と木造大膳に続く細字は確定しない。独立した〇松岡千熊伝を08-133-07-02/HP-2133として分離。子の十三・十四歳、十五人扶持、百石、関ヶ原供奉を父の事績に含めない。
- 検索キーワード
- 松岡勝兵衛/神下休五郎/山中岩助三男/木造大膳聟養子/千熊の父/義弘/惟新/松丸口/久留休斎/脇奉行/鉄砲重傷/草摺/大坂六十石/義弘夫人帰国/乗物/帖佐五百石/蒲生城普請/平松/加治木
- 公開区分
- 公開可
- 精読・確認状況
- 従来記録:精読済(今回の再精読は未実施)
- 公開判定根拠
- 従来判定を継承。新基準による個別再判定は未実施。
- 説明作成区分
- AI用PDF全頁精読
- 本文境界判定
- 旧AI全2頁を350dpiで視読し、原冊133頁・第2分冊67頁と照合。旧第1頁右端の初神下休五郎・父岩助等の小字を復元。第2頁の〇松岡千熊以下は子自身の召抱え・年齢・扶持・関ヶ原供奉を記す独立記事のため新規08-133-07-02に分離。父の本文は加治木へ召移までの2頁。通常・AI全頁を確認、旧版保存の上で差し替え。
- 判読保留
- 北国の仕官先の名と丹羽の小注、父岩助戦死地の小字、木造大膳に続く細字は公開説明で断定しない。松丸口は原字通りで城名・現代地名を外から補わない。初神下休五郎を復元。父の五百石と子の百石を区別し、旧父説明の百石を訂正。
出典:『鹿児島県史料集 第13集 本藩人物誌』