島津忠久下向時役人交名
永禄三年十月吉日 / 冊子 82頁
島津忠久が薩摩へ下向した際に従った役人七人の職掌と氏名を記した交名。No.157と同文の別本で、本文は省略される。
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永禄三年十月吉日 / 冊子 82頁
島津忠久が薩摩へ下向した際に従った役人七人の職掌と氏名を記した交名。No.157と同文の別本で、本文は省略される。
永禄三年十月吉日 / 冊子 82~83頁
島津忠久下向時の七役人を列挙し、本田を御幡奉行、酒匂を御沓役人、猿渡を御鎧役人などとする職掌の由来や、合戦での役目継承を記す。
年月日未詳 / 冊子 513頁/原整理番号 526
酒匂氏日帳の記事。その暮れ十二月に島原一揆が起こり、御使を命じられて同二十七日に島原へ参着したことを記す。野元源左衛門を三原左衛門佐のもとへ遣わし、翌日の江戸行きに備え、前十九日に島原を出船して正月元日に平戸へ入った経過を掲げる。
宝永七年秋(序)、文治二年八月一日・文和三年十月二十一日(由緒中記事) / 冊子 496~497頁/原整理番号 22
宝永七年秋、酒匂氏の由緒と散逸した家譜の復元方針を記した序。酒匂氏を桓武平氏の流れとし、梶原権大夫景道―景久・刑部丞朝景へつなぎ、朝景が源頼朝から相州酒匂荘を賜って酒匂を称し、島津忠久に仕えて薩摩・大隅・日向守護職補任に伴い文治二年八月一日に薩州山門院へ下向、子景貞も従ったとする。豊州宇佐八幡宮参詣時に青銭二片を得て家蔵したこと、頼朝から賜った御母衣を源左衛門尉家に伝えたこと、後に薩州高江へ移住したことを記す。文和三年十月二十一日の知色城攻撃では一夜奮戦して討死した者、安国寺住持となった右馬入道らの軍歴・出家も挙げる。総州家没落時に系図・文書が散逸し、総州家と奥州家の系図が食い違ったため、旧記・兵書・家伝・坊津一乗院の梶原氏系図を比較し、新左衛門尉景安以後の伝承を加えて復元したと説明する。
永禄四年七月十二日、寛永十五年、宝永元年三月三日~宝永五年閏正月十六日(主要記事) / 冊子 498~501頁/原整理番号 22-2
酒匂氏左衛門尉家の系譜・軍歴・伝来什物の家例を記す。新左衛門尉から治部少輔へ続き、日州目白坂で戦死した人物を置く。源左衛門尉は鎌田尾張守政年とも称し、島津義久に仕え、伊集院忠朗・島津忠将の移動に従った後、永禄四年七月十二日の竹原山合戦で忠将とともに戦死し、配下三十余人も討死した。景宗は義久から正嫡と認められ、肝属郡串良など八町を知行したが、肝属一郡が伊集院幸侃へ与えられると子らは蒲生、のち出水へ移った。景政を猶子、景明を婿養子とする家督継承、後裔の婚姻・早世・地頭職も載せる。酒匂家伝来の観音像と『天之御母衣』は、家督者が千日潔斎・七か月別火を行って一度拝し、太刀・樽肴を献じて藩主へ披露する家例であった。景明・景義の代に中断したが、景安が旧例復興を訴え、宝永元年三月三日に儀礼を再興し、宝永五年閏正月十六日には忠久伝来什物を収めた筥蔵の小番を代々務めるよう命じられた。
年月日未詳 / 冊子 497~498頁/原整理番号 22-1
桓武天皇―葛原親王―高見王―高望王から良望・良将・良孫・良文へ分かれ、村岡忠道、三浦為道、鎌倉景名、梶原権大夫景道・鎌倉権守景時を経て、梶原太郎景久・刑部丞朝景へつなぐ系図。朝景を酒匂形部丞、子景貞を左衛門尉・酒匂とし、資長・忠影・盛景・資房・宗景・資泰・貞資・資盛・資行・資景・景秀・氏景らの諸流と通称・官途・入道名を図示する。坊津一乗院所蔵本で、同院先住の頼政法印を酒匂家の庶子と伝えるため旧記に基づくとする一方、符号の多さや、年数の隔たりが大きい親子・兄弟関係、仮名と実名の配列に疑問があると批判し、新左衛門尉が旧記を考証して補系した旨を注記する。
(慶應元年)九月十一日 / 冊子 526~527頁/原整理番号 10
酒匂家の伝承と東鑑を手掛かりに、忠久に奉仕した酒匂朝景・景貞、幼少時の保護と入国随従を記す。「母衣」の意味、成長時に贈られた太刀の銘、委敷という語の解釈を検討する。道聖の自記にある忠久の誕生・元服・直垂の紋の秘事が、順聖院の指示で内密に調べられたことを述べ、未見の書付と開封閲覧の経過にも言及する。