五代友喜・有川貞豊・帖佐宗光連署覚書
慶長二年八月廿二日 / 冊子 133~135頁
五代友喜・有川貞豊・帖佐宗光が川上四郎兵衛尉・枇杷権左衛門尉へ、袈裟菊殿内の宇多与右衛門尉が安宅殿へ提出した申状に関する聞取り結果を報告した連署覚書。宇多の知行配当、使者の往来、奉公・武具・書状、相良五郎左衛門尉らの証言を照合し、宇多父子の切腹を命じる書状の有無をめぐる袈裟菊殿母側の主張など、当事者間で食い違う言分を詳細に列挙する。
SEARCH THE ARCHIVE
『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
15 件 (全巻)/ 1–15件を表示
ページ 1 / 1
慶長二年八月廿二日 / 冊子 133~135頁
五代友喜・有川貞豊・帖佐宗光が川上四郎兵衛尉・枇杷権左衛門尉へ、袈裟菊殿内の宇多与右衛門尉が安宅殿へ提出した申状に関する聞取り結果を報告した連署覚書。宇多の知行配当、使者の往来、奉公・武具・書状、相良五郎左衛門尉らの証言を照合し、宇多父子の切腹を命じる書状の有無をめぐる袈裟菊殿母側の主張など、当事者間で食い違う言分を詳細に列挙する。
元和五年八月廿四日 / 冊子 709頁
伊勢貞豊が、松齢自貞庵主(島津義弘)の仏道への帰依と遺徳を偲び、涙・秋・月・鐘などを詠み込んだ追悼和歌。
四月廿五日 / 冊子 144~145頁
伊勢貞豊が澁谷五郎に、質人が到着すれば翌日に帰り、五日以内に軍勢を引き揚げる予定を伝えた書状。先手衆を川向こうへ移し、小早川・柳川らの陣所や軍勢配置を知らせ、油断なく武庫・久保にも連絡するよう求める。
(元和五年)八月廿二日 / 冊子 713頁
細川忠利が島津義弘への弔意を使者を通じて伝え、帰国した島津家久の悲嘆を慰め、詳細は伊勢貞豊へ申し入れたと述べた書状。
(元和五年)八月廿三日 / 冊子 713頁
新納久治が暇乞いに際する厚遇に謝し、今後も変わらぬ縁を願い、島津家久への取り次ぎを伊勢貞豊方へ依頼した書状。
(元和五年)八月廿七日 / 冊子 715頁
細川忠興が島津義弘の死を悼み、弔使の志水雅楽助を遣わして香典銀五十枚と法華経一部を贈り、島津家久への取り次ぎを伊勢貞豊に求めた書状。
年月日未詳 / 冊子 131頁
寛永六年十二月十六日、島津光久が家臣伊勢貞豊の娘を江戸の邸館に迎えて配偶としたことを記す譜記事。
年月日未詳 / 冊子 260頁
寛永九年四月朔日、島津綱久が江戸桜田邸で誕生したこと、母は家臣伊勢大隅貞豊の女であること、綱久の幼名・通称・官位と、母の没年・法名・牌所等を記す綱久譜の記事。
年月日未詳 / 冊子 225~229頁
庭の海山、白菊、時雨、木枯らし、古寺の松、紅葉、秋月、霜枯れなどを題材とする家久の短冊を中心に、同題異案や貞豊の歌も交えた秋冬の和歌集。
十月七日 / 冊子 566~567頁/原整理番号 4の8
伊勢貞豊が白坂以益へ送った書状。用向きがあるため、明日か明後日のうちに必ず来訪するよう求め、待っていると伝える。十月七日付。
年月日未詳 / 冊子 246頁
伊勢貞昌自記。朝鮮出兵時の川内山田、庄内合戦後の谷山、祖父新納忠元との縁による大口地頭就任と辞退、谷山復帰を述べ、馬の調練や妻子・娘の婚姻など家政上の出来事を記す。
六月廿一日 / 冊子 104~105頁
奥州の無事上着と伏見から駿府への下向予定、桑秀坊による佐土原安堵の見通しを報告し、伊勢家の煙草に関する風聞を厳しく取り締まうと約し、上方静謐と尾張・丹後普請の辛労を伝えた書状。
年月日未詳 / 冊子 224~225頁
新春、遠山の雪、鷹、田水、月、虫、秋風、霧、竹林、舟、霜、谷庵などを題に、家久と家臣十名が連作した多数の和歌と、家久の試筆二首を収める詠草。
(明暦四年)五月晦日 / 冊子 369頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0792
島津綱久が伊勢兵部へ、母が三月十六日頃から重い病状で食事も取れず衰弱しているため、現地の神社で祈祷・立願し、脇差一腰を霧島へ寄進して誠を尽くすよう命じた書状。
明和六年(十二月二十四日・二十六日)、追記は明和九年春 / 冊子 234~235頁/原整理番号 628/整理ID 628
この年、恕翁公元久・大中公貴久・一唯公久保・心應慶安大姉・曹源院殿の廟室を重修し、石塔を移したことを記す。十二月二十四日、組頭島津直衛久中を福昌寺と恵燈院へ遣わし、それぞれ代拝させた。続く記事は、享保乙卯の年に福昌寺が「池魚の災」に遭い、その後も寺宇が整わず殿屋を仮設していたため、この年、旧制に従って再建したとする。家老島津久金が総監、大目付島津久起が副監を務め、寺社奉行町田久連・島津久前、側用人二階堂行端、用人川上久福・川田国起、普請奉行伊集院兼明・村田経芳・面高俊常らが関与した。経芳が東武へ役務に出たため俊常が代わったとの注がある。春正月に着工し冬十二月に完成、同月二十六日に入仏供養を行った。先規により使番頭川上久馬久致を通じて福昌寺へ青蚨五百匹を贈って慶賀した。完成後、扁額を作り、重豪が「玉龍山」の三字を親書して山門に掲げた。門外の石橋一か所は龍門橋と呼ばれたが廃され、明和九年壬辰春には泉を引いて池とし、石橋を架けた。長さ二丈六尺余、幅一丈六尺余で、壮麗さは旧制を超えたとする。池中に蓮数百根を植えて蓮池と名づけ、小堂二宇に観音と弁財天女を安置し、さらに橋を架けて通じさせた。観音は俗に水観音といい、もとは龍門橋の傍らにあったとの注を伴う。