町田久幸外三名連署覚書
(慶長十七年)三月廿二日 / 冊子 358頁
慶長十七年三月二十二日、町田久幸ら四名が、琉球駐在奉行、年貢・納物、買物法度、渡唐船と銀子持出し、日本人宿泊、米積船、浦添在宅、高麗人、関東へ差し出す女性などを定めた覚書。
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(慶長十七年)三月廿二日 / 冊子 358頁
慶長十七年三月二十二日、町田久幸ら四名が、琉球駐在奉行、年貢・納物、買物法度、渡唐船と銀子持出し、日本人宿泊、米積船、浦添在宅、高麗人、関東へ差し出す女性などを定めた覚書。
(寛永十一年)十月十九日 / 冊子 453~454頁
琉球国王・黄門・薩州様・三司官らに対する年頭進物の品目と数量を定め、使者・付衆・老中・琉球奉行等への進物や礼物の基準を示した条書。使節経験者への恒常的な音信や、一部役人への礼物を禁じる。
寛永十一年十月十九日 / 冊子 454~455頁
無許可の他国人渡航・宿貸し、公儀に無披露の投銀を禁じ、唐糸価格と福州での買付、琉球へ下る使者の行動、飯米等の供応、日本人の長期滞在、船頭・水手の現地妻帯、南蛮宗徒の処刑、琉球銀の上納方法などを規制した条書。
年月日不記(天正十九年・寛永十四年などは系図内の生没・事績年) / 冊子 639~642頁/原整理番号 115
桂氏五世太郎兵衛忠詮の三男・忠増(初名忠益)から始まる彦太夫家系図で、子女の生没・婚姻と官職を記す。忠増は仁礼蔵人頼景の三男・忠守(初名頼張)を養子に迎えたが、のちに実子忠保が生まれ、頼景が忠守の帰家を求めた。忠増は二男家として残すことを申し出て田を分け、忠守の家を立てたとする。忠守は明暦三年に境目の紙屋で地頭職に補され、加久藤・横川でも地頭を務め、京都蔵奉行・町奉行・琉球奉行・御用人などの勤めを重ねた。寛文九年の病中には綱久が山次右衛門久包を通じて安否を尋ねたこと、後代の勝政による太刀献上や勝房らの系線も載せる。
年月日不記(慶長五年・寛永十四年・寛文十一年などは各代の記事) / 冊子 647~649頁/原整理番号 118
源姓畠山氏の頼国・盛淳から始まる略系図。盛淳は大乗院盛久の弟子として出家し、還俗後は家老職を務めて蒲生の地を賜った。慶長五年の関ヶ原合戦で西軍が敗れ島津義弘が危機に陥ると、盛淳が義弘の身代わりとなって戦死したと記す。子の忠栄は父の戦死時に三歳で、義久の許しにより祖父頼国の家財・田園を継ぎ、琉球奉行・山奉行・物奉行・横目頭を歴任した。後代には肝付家出身の忠朝が忠栄の婿養子として家を継ぎ、島津光久の十五男を後嗣とする別伝も記す。義方が詩文五冊を伝えたことや女子の婚姻、国張らに至る子孫も載せる。