箕輪伊賀自記
年月日未詳 / 冊子 396~397頁/原整理番号 124
高原城攻略を述べる自記。天正四年、高原を急いで攻めると決まり、小林・温水・三山へ軍勢を置いて野尻の側から進んだ。義久・忠平の三万余騎と、一雲の八千余騎が出勢し、八月十六日に高原を包囲して火矢を射た。柏原将監が橋で防戦する中、新納刑部太輔は小楯を持って城戸口へ突入し、多くの傷を受けながら打刀で戦って退いた。名を尋ねた足軽大将漆豊前介が勇士として称え、他の薩摩の兵も高名を立てたという。
SEARCH THE ARCHIVE
『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
2 件 (全巻)/ 1–2件を表示
ページ 1 / 1
年月日未詳 / 冊子 396~397頁/原整理番号 124
高原城攻略を述べる自記。天正四年、高原を急いで攻めると決まり、小林・温水・三山へ軍勢を置いて野尻の側から進んだ。義久・忠平の三万余騎と、一雲の八千余騎が出勢し、八月十六日に高原を包囲して火矢を射た。柏原将監が橋で防戦する中、新納刑部太輔は小楯を持って城戸口へ突入し、多くの傷を受けながら打刀で戦って退いた。名を尋ねた足軽大将漆豊前介が勇士として称え、他の薩摩の兵も高名を立てたという。
弘治2年10月5日 / 冊子 98~104頁/原整理番号 20-1
冒頭に弘治二年十月五日付の後奈良天皇口宣案を掲げ、権大僧都省釣(肝付兼続)を法印へ転任させる。上卿は中山大納言、奉者は蔵人頭左大弁頼房で、『家わけ二』肝付文書一七号と同文である。続いて前文書からつながる平岡氏系譜を収める。平岡義理は天正元年に日向国住吉原で北郷時久・相久・忠虎らとの合戦に討死し、義光は豊臣秀吉・徳川家康に仕えて子孫が旗本となった。義秀は島津義久に奉公し、天正六年の高城防衛と文禄元年の朝鮮出兵に従い、大崎横瀬村を賜る。義辰は慶長四年の恒吉城攻めに従軍し、のち串良杉尾口へ移された。以後、義長・義元・義彦・義遇・義敬・義業・義臣・義言・義堯・義源・義寄ら諸流について、寺院建立、知行・高山預、家督、養子・婚姻、医師・僧位、出生・没年・法名を詳記し、末尾は宝暦四年九月二十七日生の女子の記事で終わる。