佐多忠増・本田親正連署書下
慶長廿年四月八日 / 冊子 577頁
知行高に応じ、出陣時の軍役人数十四人と、騎馬二疋を含む具足・鉄砲・弓・鑓などの装備構成を定め、周到な準備を命じた連署書下。
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慶長廿年四月八日 / 冊子 577頁
知行高に応じ、出陣時の軍役人数十四人と、騎馬二疋を含む具足・鉄砲・弓・鑓などの装備構成を定め、周到な準備を命じた連署書下。
慶長二十年四月二日 / 冊子 577頁
知行高に応じ、出陣時に用意すべき軍役人数九人と、騎馬・馬取・具足・鉄砲・弓・鑓などの構成を定め、二か月分の自弁を命じた三名連署の書下。
年月日未詳 / 冊子 17~19頁/原整理番号 5
本田市郎左衛門家の略系図。清寧天皇から親峯・親正・親満・親定へ続く系線を掲げ、善光を天竺の月蓋長者・聖徳太子の過去世の師とし、難波浦で得た阿弥陀如来を信濃へ奉送したとする善光寺如来縁起を詳記する。続いて薩州出水郡山門院の本田氏について、平氏下向時に近衛家へ参って藤原氏を称したとの伝承、親森(道観)以下の系譜を記し、親治の大隅西原での戦死、正親の高麗留守・出水衆頭・富隈での老名役、親貞の家督相続、加治木板井口の戦闘と日州高城での戦死記事へ続き、末尾を「以下略」とする。
天文23年9月、天正6年、天正14年12月8日、文禄4年7月18日、慶長元年5月23日、慶長4年12月8日、慶長6年8月9日、慶長14年、慶長19年、承応2年6月5日、元禄4年 / 冊子 23~26頁/原整理番号 8
出自不詳ながら、信濃守重宣の孫・丹波守実親の弟である部左衛門親行の法名ではないかと考証される古簾(道号越岩、異伝では越山永超居士)を祖とする本田氏系図。親尚は日新公に奉仕して戦功を重ね伊集院地頭となり、親吉は日新公・貴久公に仕えて感状を受けた。親貞は兄の死後、太守の命で正嫡を継ぎ、義久の家老、吉田・加世田等の地頭となり、吉野・磯を領して家臣を配置し、岩剣城攻め、大友氏の日州侵攻、九州征伐で軍務を担った。後裔について、豊後戸次城下・瀧ヶ水・庄内安永での戦死、九州・高麗・庄内役、琉球征伐・大坂の陣、曽木・福山等の地頭職、大坪流馬術の相伝、婚姻・養子関係を記す。
慶長十六年正月十七日 / 冊子 310~311頁
慶長十六年正月十七日、蒲池休右衛門尉・本田伊賀守が島嶼検地の組頭へ出した連署達書。飯米・薪・酒・米・船頭食・油などの支給基準、現地調達の手順、百姓への寄付・人夫徴発を不当に行わないことを細かく定める。
慶長20年4月8日 / 冊子 173頁/原整理番号 88
伊地知四郎兵衛尉に対し、四百七十一石余の高に応じて左備の人数十四人、馬乗・馬取・甲持・鉄砲・弓などを割り当てる連署書。兵具奉行と相談し、二か月分を自賄いして出陣するよう命じる。