島津久元外二名連署引付
寛永十九年正月廿八日 / 冊子 189~190頁
島津久元・山田有栄・頴娃久政が五代仲兵衛尉・三原五郎兵衛尉へ、高二百石を知行および御使役分として与え、両人で支配するよう命じた連署引付。寛永十九年正月二十八日付で、久元が印を据えている。
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寛永十九年正月廿八日 / 冊子 189~190頁
島津久元・山田有栄・頴娃久政が五代仲兵衛尉・三原五郎兵衛尉へ、高二百石を知行および御使役分として与え、両人で支配するよう命じた連署引付。寛永十九年正月二十八日付で、久元が印を据えている。
永正13年、天文11年、永禄10年11月23日、天正2年、慶長元年、慶長8年、元和8年8月10日、寛永元年12月1日、寛永2年2月20日、寛永11年1月3日、寛永20年5月8日、慶安3年7月16日、明暦2年3月、寛永3年6月9日、寛文6年7月2日 / 冊子 29~30頁/原整理番号 9-1
鎌田政真の槿花の奇瑞に伴う朝顔二首の和歌を掲げ、鎌田家系を続記する。政春(治部左衛門尉)の系では、大炊助が島津義久の菱刈院馬越攻略に従い、永禄十年十一月二十三日に軍功を立てて戦死した。政在は嗣子のない大炊助の養子で、実は佐多久越後守の弟とされ、薩摩・大隅・日向三州および肥後・筑後・豊後六州の軍場に従い、向島地頭を長年務めた。後裔の政貞は鶴田地頭、政栄は平松・吉松・野田・小根占・大姶良・田代・田布施の地頭を歴任して明暦二年に御使役となり、国治は比志島義之の養子となった。各人の出生・死没・法名、婚姻、早世記事も収める。
天正5年、天正13年、文禄元年、慶長5年3月28日、慶長11年、寛永4年8月14日、寛永14年3月5日、寛永17年10月7日、明暦2年10月5日、寛文7年11月28日、延宝6年、延宝8年、天和元年、享保11年正月11日、延享2年7月11日、元文4年4月24日、元文6年3月12日、寛保元年7月20日、寛保3年6月7日、明和8年6月27日 / 冊子 30~34頁/原整理番号 10
田布施士・篠原諸左衛門政盛家の庶流にあたる鎌田政香家の略系図。鎌田氏四代清重の二男・篠原清時から十代、篠原政明の二男に発する一流とし、政実は嗣子のない鎌田家へ婿養子として入り、実は上井薫兼の五男で上井覚兼の弟だったと記す。政徳・兼安以下の出生・没年、鬼塚・鎌田・曽木・義岡・伊集院諸家との養子縁組、婚姻をたどり、馬越・清水・小林、田布施・串木野、郡山・平松・中郷・坊津・清敷・帖佐などの地頭職、御使役・近習役を列記する。政親は島津綱貴・光久に近侍し、政興は島津吉貴から名・詞花集・伽羅三種と二重十文字紋を拝領して大御目付役を務め、寛保三年の隠居時に政恒が家督を継いだ。
年月日未詳 / 冊子 760~761頁
喜入忠道の後嗣久正を祖とする支流系図。川上久光の長男久正が忠道家を継ぎ、島津義久隠居時に家老となり財部・国府地頭を務めたこと、久洪・久憲・久信以下の御使役・用人・地頭職と養子関係を記す。
年月日未詳 / 冊子 101頁/原整理番号 162-1
伊地知季安の記事。島津久賀らが、出水へ中取として出張している御使役市来宗友へ檄を送り、兵糧の運漕を促したと記す。目録年月日欄は空欄。
明和四年十月日 / 冊子 62頁/原整理番号 30
川上久国ら四名は、伊地知杢右衛門に御使役分として知行を与え、その支配を命じる。寛永二十年八月三日付で、宛先に高奉行衆として平田清右衛門らの名がある。続く季安の考証では、この引付を平田が当時まだ高奉行を務めていた根拠に用いる。