伊集院弥六左衛門尉起請文
慶長四年閏三月廿四日 / 冊子 370頁
伊集院弥六左衛門尉が、幸侃成敗に伴う相談内容を源二郎の親類や家中へ漏らさず、源二郎が別儀なく奉公すれば通常どおり交際すること、龍伯・義弘・忠恒に別心なく、縁者の悪逆も即時に言上し、一向宗にならないことを誓う。
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慶長四年閏三月廿四日 / 冊子 370頁
伊集院弥六左衛門尉が、幸侃成敗に伴う相談内容を源二郎の親類や家中へ漏らさず、源二郎が別儀なく奉公すれば通常どおり交際すること、龍伯・義弘・忠恒に別心なく、縁者の悪逆も即時に言上し、一向宗にならないことを誓う。
二月一日 / 冊子 698頁
島津勝久が奈良原帯刀允に、子息弥六左衛門の討死を忠節の至りとして悼み、今後も変わらぬ奉公を求めた書状。
二月一日 / 冊子 710頁
本文はNo.2143の島津勝久書状と同文のため省略される。奈良原帯刀允の子弥六左衛門の討死を忠節として悼み、奉公を求めた書状。
慶長十一年五月二日 / 冊子 72~73頁
伊集院抱節・山田理安が連署した、財部内の知行地割目録。蒲興禅寺内などの田地を田位・面積・石高ごとに示し、仲兵衛・五郎右衛門・権右衛門・助六・伝右衛門・源太・弥六左衛門らへ割り付ける。総高二十三石九斗余と、ほかに高山へ遣す七石余を記し、二口を合計する。
年月日未詳 / 冊子 583頁
新納久无は八月中旬に薩州から伏見へ向かう途中、島津義弘(惟新)が石田三成方に加わったと聞き、九月に大垣で義弘へ謁した。十五日の関ヶ原合戦に従軍して多くの家臣を失い、敗走時には伊吹山から近江路を経て京都へ到着した。喜入忠政・川上助七らと平道正庵宗古の宅に潜伏し、近衛信尹の厚意と宝刀を受け、翌年三月に帰国した経緯を記す。
慶長五年十一月廿八日 / 冊子 620頁
新納新八郎ら十一名が、用に備えて銀子一貫目(うち七匁不足)を借用したことを証する。利子について配慮を受けたことに謝意を示し、本銀は各人が国元へ下る次第、早々に返済すると約束する連署借用証文である。
元亀二年七月十六日 / 冊子 380~381頁/原整理番号 95
大口郷に残る諏方社の祭方古帳の抄録。元亀二年七月十六日のしめおろしに用いる酒米一斗・飯米一斗三升・花米三升と、注連など各所への米の配分を記す。地頭組の肴銭百文、御頭の人足積日記に載る三町分の人数と米、十八町分六組なども抜き出す。末尾に同年七月吉日と伊集院弥六左衛門尉・新納刑部太輔・春成の名を記し、途中の人名・数行は省略されている。
年月日未詳 / 冊子 356~358頁/原整理番号 59
横川から来た者が島津方の情勢を菱刈・伊東・相良へ知らせ、背反が起きたことを記す。菱刈は大軍の進路に気づかなかったといい、島津方は馬越へ急襲した。先鋒が多数の損害を受けながら攻め、義久・義弘の隊や諸隊が戦って落城させた。諸城が放棄され大口に籠城されると守備隊を置いたが、相良頼房の加勢もあり、求麻・八代・芦北の兵や住民が集まって、大口は攻め難い城になったという。