貴久記
年月日未詳 / 冊子 3頁
弘治元年正月、屋形様父子が吉田まで出陣したが、北村勢の偽計により味方が敗軍した。弟子丸播磨守が退かずに討死し、指宿丹後守・敷根源八兵衛らも戦死したことを記す。
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年月日未詳 / 冊子 3頁
弘治元年正月、屋形様父子が吉田まで出陣したが、北村勢の偽計により味方が敗軍した。弟子丸播磨守が退かずに討死し、指宿丹後守・敷根源八兵衛らも戦死したことを記す。
年月日未詳 / 冊子 2頁
蒲生北村の敵が帰順を装って島津軍を誘い出し、弘治元年正月二十二日に貴久・義久が吉田から出陣したところ伏兵に遭った。弟子丸播磨守・指宿丹後守以下十八人が戦死し、十九歳の歳久も負傷したと記す。
年月日未詳 / 冊子 1~2頁
島津貴久が嫡男義久、弟忠将、子の歳久・家久を率いて北村を攻めた際、敵の伏兵に遭って歳久が負傷。翌日、北原氏の軍勢が溝辺に出たため大隅衆が迎撃し、鉄砲で敵六人を射殺、太刀で一人を討ち取った。
年月日未詳 / 冊子 2~3頁
弘治元年正月、範清・良重らが北村勢と謀って降参を装い、島津貴久・貴明を誘い出した。敗退時に貴明が危難に陥ると新納忠元が駆けつけ、敵を退けて無事に退却させ、感賞を受けたと記す。
年月日未詳 / 冊子 3頁
弘治元年正月、蒲生範清・祁答院良重らが北村勢に偽降させ、島津貴久父子を誘い出した。敗退時に新納忠元が御太刀を持って貴久に従い、さらに危急の世子を救うため殿軍を務めて奮戦し、感賞を受けたと記す。
年月日未詳 / 冊子 3~4頁
島津貴久勢が北村で北原氏の偽装退却と伏兵に遭い包囲される。指宿右馬允と竹若丸が殿を務めて戦死し、弟子丸らも討死する一方、北原忠辰が追撃勢を攻め、貴久は退却した。翌日、北原勢が加治木・溝辺へ進出すると大隅衆が迎撃し、敵およそ二十人を討ち取る・生け捕るなどしたが、味方の足軽にも戦死者が出た。
年月日未詳 / 冊子 340頁/原整理番号 34
勲功記が、弘治元年正月に蒲生・祁答院方が北村の者と謀って偽降し、大中が吉田から北村へ向かった時に不意の合戦となったと記す。敗れて引く中、忠元は大中の大刀を持って防いだが、奪われて弟子丸播磨守らが取り返して討死した。義久も危険な状況にあったため忠元が救援に駆けつけ、引き取られた後に特別の賞を受けた。その難儀は北村歸忠の報告として世に伝わるとする。
年月日未詳 / 冊子 340~341頁/原整理番号 35
年譜が、弘治元年正月に蒲生・祁答院が北村の住民を偽って降伏させ、兵を潜ませたと記す。貴久と世子は二十五日に吉田へ進み、二十七日に北村へ入ると攻撃され、味方は不利となった。忠元は大太刀を持って従い、弟子丸らが引き返して戦い討死した。世子も危険となり、貴久が忠元にその救援を命じ、忠元は奮戦して敵を退けたという。
4月16日 / 冊子 240~241頁/原整理番号 183
其後御無音申移候、去年より我等事も御用に召され、弟子丸播磨守殿へ御用共候として、相調候事難成躰を述べる大迫尚信書状。旧記雑録後編五所収の長文書状で、浮世人帳や切支丹禁制、伊地知治右衛門重時の事績を論じ、卯月十六日、大迫権右衛門尉尚信から伊地知治右衛門宛で結ぶ。
巻一/冊子 12~14頁
加治木・帖佐の反島津勢力が再起し、蒲生・渋谷・祁答院・入来院・菱刈・北原らが連携して肝付氏の加治木城を攻めたことから、貴久父子が平松・帖佐方面で長期戦を行った経過を記す。天文二十三年、網掛川、平松、岩野原などで戦闘が続き、貴久は尚久・忠平(のち義弘)らを配置した。十月二日の平松合戦では島津方が大敗して五十余人を失うが、その夜に岩剣城が放棄され、その後平松城も陥る。弘治元年正月、貴久・義久は吉田へ進むものの敵の謀略で再び敗れ、弟子丸播磨守らが戦死し、歳久も負傷した。以後、溝辺・帖佐別府川・山田などで戦いを重ね、忠平・尚久らが奮戦する。四月二日夜、敵は帖佐・新城・山田城を捨てて祁答院へ退去し、北郷・肝付・禰寝らも凱歌を挙げた。従来概要のような一貫した大勝ではなく、複数の敗戦と損害を経て敵方の拠点放棄に至った戦役である。