島津義弘書状
十月十日 / 冊子 416~419頁
十月十日、島津義弘が、先便や大坂からの書状を読み返して喜び、船旅が順調であったこと、家族・家中の近況、京都での滞在や道中の苦労、今後の連絡と再会への願いを長文で述べた書状。
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十月十日 / 冊子 416~419頁
十月十日、島津義弘が、先便や大坂からの書状を読み返して喜び、船旅が順調であったこと、家族・家中の近況、京都での滞在や道中の苦労、今後の連絡と再会への願いを長文で述べた書状。
天正二年正月三日以後 / 冊子 331~332頁
天正二年正月三日の茶園尾合戦から牛根城開城までを詳述する。島津軍の進撃に肝付勢が敗走し、義久が狂歌を矢に付けて城内へ送り、逆瀬川奉膳兵衛らが切岸を掘って降伏を促した。新納忠元の入城後、其阿上人を使僧として肝付・伊地知両氏の帰順と城地の献上・再配分が実現した経緯を記す。
天正二年正月十八日~廿七日 / 冊子 329頁
天正二年正月十八日から牛根城の切岸を昼夜掘り進め、城内まで道を通したため、守兵が降伏を請うた経緯を記す。十九日夜に停戦し、翌日人質を交換、二十二日に新納忠元が入城、二十七日に義久が早崎陣から帰還した。続いて伊東・肝付・伊地知勢の禰寝侵攻と喜入季久らの迎撃も記す。
天正二年正月三日~廿七日 / 冊子 333頁
天正二年正月三日の茶園ヶ尾合戦、牛根城切岸の掘削と開城、同十九日の禰寝方面の戦闘を詳述する。家久・忠長らの追撃、霧島山神火の瑞兆、喜入季久の奮戦と弟二人の戦死、人質交換、新納忠元の入城を記し、切岸を掘り抜いた三名の働きを高く評価する。
慶長期、元和年間・元和8年9月ほか / 冊子 280頁/原整理番号 110
横川士上原氏の祖・上原少監物(のち奉膳兵衛か)から藤右衛門・藤左衛門へ続く系図。少監物は龍伯公が国分にいた時期に慶長高帳で食禄六十石、元和年間には七十五石七斗六升三合を食み、元和八年九月に東郷重位の秘訣書を受けたほか、龍伯がその宅を訪れて刀を与え、その刀を八幡宮へ寄進したと記す。藤右衛門は光久公から名を与えられ、喜入丹波が国分地頭であった時に関わる由緒を持ち、のち横川へ移ったという。藤左衛門は綱久公に従って芝邸へ上り、藤左衛門の名を賜り、二十四歳で横川の役人となった。
年月日未詳 / 冊子 375頁/原整理番号 84
忠元が馬越の城戸で四度戦い、村田右衛門の戦死に立ち会い、自身も手負いとなったことを記す。後の狩での負傷や、相良が大口に籠もり市山の守備が厳しかった時の働きも述べる。伯囿は忠元に御蔵を与え、馬越から市山、次いで蒲生の地頭に任じた。忠元は限られた分限と兵力で長年奉公したという。
年月日未詳 / 冊子 387~389頁/原整理番号 110
比良床への出陣と牛根城攻略を述べる自記。天正二年正月三日の攻撃では諸将が競って先陣を務め、軍勢を出した。義久が牛根を詠んだ戯歌を城へ射込む一方、大口の住民二人が夜に岸を掘り崩して城内を攻めた。軍神へ誓った新納武蔵守が下城を取り、諸城の地頭を置いた。浄光明寺の僧を介して肝付方へ和睦を勧め、諸所を与えて赦免すると、敵は兵船で退去した。重興らへの所領付与と、忠節を尽くした者への恩賞も記す。
年月日未詳 / 冊子 389~390頁/原整理番号 111
天正二年の牛根城攻略と肝付方の和睦を記す勲功記。安樂兼寛の守る牛根城を攻める際、忠元は逆瀬川らに岸を掘って道を通すよう指示し、幼い忠堯を城へ入れて兼寛の弟兼貫を人質として得た。十二日に城内へ入り四百三十余人を討ち、牛根領の獲得を忠元の功績とする。肝付方の当主らが没して勢力が弱まる中、忠元は兼純との親族関係や其阿上人を通じて和睦を勧め、二月に下城と五ヶ所を譲らせた。市成・廻・福山・恒吉の取得、先功の賞賛、愛岩建立と六月十四日の例祭も伝える。
年月日未詳 / 冊子 390頁/原整理番号 112
天正二年正月の牛根城降伏について玄佐が記す自記。二十日に忠元の子刑部太輔が人質として城内へ入り、安樂備前守の弟彦八郎が城外へ出た。二十二日に下大隅が譲渡され、二十七日に忠元が城内へ入ったとする。岸を掘って道を作る奇計は古今に例がないとして、本村・逆瀬川・久富伴の三人を調達した忠元の才覚を称える。末尾は太守の慈悲と神慮、諸人の奉公を述べる。