瀧聞宗運書状
十月十九日 / 冊子 56頁
瀧聞宗運が、浜市での面会とその後の手配について土持大膳亮へ返答した書状。受け取った糧を配分し、役人へ引き渡したことを報告し、上洛後は京都での諸事に助力してほしいと依頼する。
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十月十九日 / 冊子 56頁
瀧聞宗運が、浜市での面会とその後の手配について土持大膳亮へ返答した書状。受け取った糧を配分し、役人へ引き渡したことを報告し、上洛後は京都での諸事に助力してほしいと依頼する。
四月廿五日 / 冊子 144~145頁
伊勢貞豊が澁谷五郎に、質人が到着すれば翌日に帰り、五日以内に軍勢を引き揚げる予定を伝えた書状。先手衆を川向こうへ移し、小早川・柳川らの陣所や軍勢配置を知らせ、油断なく武庫・久保にも連絡するよう求める。
11月21日 / 冊子 389頁/原整理番号 354の17
『笘引渡申付状』は、覚、十一月二十一日。笘百帖を掲げる。末尾では、小湊で船を仕立てるため、当地に残してある笘を庄屋佐藤大炊左衛門へ引き渡すよう小松原浜役人衆へ命ずる。
11月23日 / 冊子 404~405頁/原整理番号 368の2
片浦から出す五枚帆一艘・四枚帆三艘(水手計三十二人)と、小浦から出す五枚帆一艘・四枚帆三艘について、船主・上乗・主取を列記する。さらに小松原三人・小湊三人の加子六人をそちらの船に早く乗せ、残る十一人は片浦から送ると伝える。十一月二十三日、小湊庄屋佐藤大炊左衛門宛。六人は商買船に雇われ小浦へ来ているが、船は他国船なので加子だけを小湊船へ乗せると付記する。
年月日未詳 / 冊子 266頁
殉国名薮の記事。慶長十五年四月九日の久保権兵衛重次をはじめ、島津以久に仕えた猿渡左近、肝付治部左衛門兼家、日高大炊左衛門重勝ら、主君に従って殉死した家臣を列挙する。
正保三年四月七日 / 冊子 38頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0066
新納忠清が、和泉守の鹿児島行きを承知し、万事怠りないよう依頼する。伊主膳正の煩気が早く快復したことを喜ぶ。馬関田との境出入は鹿児島奉行所から指示を得て処置したが、今後難しくならないよう行司衆にも堅く申し渡し、重ねて相談するよう求める。宛先は川野与右衛門・西田和泉守・白坂大炊左衛門。
11月24日 / 冊子 411頁/原整理番号 375の1
十一月二十四日、熊一人を使者として、小湊にある「しやうのう舟」六端帆一艘について、他国船との話に対して当地の船とも聞くので、事情をよく確認するよう佐藤大炊左衛門へ伝える。その船も出水へ遣わすため、早く荷を下ろして出船させるよう求め、水手は秋目から送ってあり、飯米は差出側から渡したので遅延しないよう命ずる。追伸で笘もその船に乗せるよう指示する。
寛永廿年九月廿二日 / 冊子 178頁/原整理番号 83
寛永二十年九月二十二日付、加久藤地頭伊地知重政の書状。毎年の上納品の未進について御算用所から送られた書付を、受取をもって清算し消し込んだと知らせる。今後は定めの時期に遅れず上納させるよう、白坂大炊左衛門らへ命じる。
(寛永二十年)九月廿二日 / 冊子 15頁/原整理番号 7
伊地知重政が加久藤の関係者へ、長年の上納品と未進について勘定所から渡された書付は、受取を得て全体の算用を済ませ、消し込めたと伝える。今後も時期ごとに上納を怠らぬよう命じる寛永二十年九月二十二日付の書状である。
年月日未詳 / 冊子 400頁/原整理番号 513
寛永十二年改めの男女二千三百二十六人から他方へ出た百四十二人と死去・逃亡した百七十五人を除き、残り二千九人に、その後の入人二百八十九人・出生百二十七人を加え、寛永十六年改めを男女二千四百二十五人(男千四百六十九人・女九百五十六人)とする。内訳は地頭・衆中・小者・出家・社人等千二百六十三人(男七百五十六人・女五百七人)と、町・在郷・座頭・行脚等千百六十二人(男七百十二人・女四百四十九人)で、後者の男女計は原記載上千百六十一人となり一人合わない。三月四日に白坂・谷口が記し、鹿児島から柳田喜左衛門尉が来て改めた目録の留と付記する。
寛永十六年三月十六日 / 冊子 401~402頁/原整理番号 515
大膳亮内の上田三左衛門尉は加久藤御曖衆へ、妻の妹への宗門手札交付を依頼する。妹は先年の改めの際、加治木又八郎の御前に奉公しており、御内方には手札が下されなかったため現在も所持していない。寛永十三年八月に暇を得て上田のもとへ来た後、加久藤衆中小原織部佑方へ遣わしたので、今回の改奉行へ申し入れて手札を下すよう求める。
年月日未詳 / 冊子 412~413頁/原整理番号 375の6
十一月二十四日、荷方八端帆一艘に笘三十帖を付け、天草一乱のため公儀へ借り上げた覚書。船主を筑後の久二郎と記し、片浦で宮原傳兵衛尉に伝えた際は小湊の孫左衛門の船とされたが、庄屋佐藤大炊左衛門が小湊船ではなく筑後の久太郎の船だと述べたため、後日確認することとする。船手は秋目から立てた加子十一人、主取は太兵衛尉と付記する。
寛永9年8月 / 冊子 23~24頁/原整理番号 30の1
白坂篤豊が知行八十五石八斗二升について、寄高を含めず自分高のみで乗馬奉公すると申し出る。手持ちの鉄砲一挺・鑓一本・弓一張と矢を申告し、馬と不足する諸道具の支給を求める。
(寛永二十一年)七月廿一日 / 冊子 17頁/原整理番号 13
加久藤の伊地知重延ら四名が隣郷の弓削将監・野田狩野介へ、十五歳から六十歳までの百姓に狩代銀を納めさせるよう命じられた件を伝える。諸士の被官や神領の者など、以前地頭狩に出なかった者を今回は除いたが、相手方ではどう扱うかと尋ねる七月二十一日付書状である。
寛永二十年十月一日 / 冊子 105頁/原整理番号 13
加久藤の曖衆三名が御蔵廻の肥後真右衛門へ、百姓の七合反米の取納について、殿役仕二人のうち一人は病気、もう一人は他行のため差出しが遅れると説明する。当地では別に取納人を置き、数日中に収納を始めると伝える。
11月21日 / 冊子 388頁/原整理番号 354の15
天草出陣用船を小湊で仕立てるため、大唐竹五十本と小唐竹十一束を引き渡すよう大浦村庄屋衆へ命じる。