児玉利昌譜
年月日未詳 / 冊子 427頁
『児玉氏乳後利昌譜』が、慶長四年の庄内の乱で、島津義久が富隈から平田狩野介宗応に兵を率いさせ、成渡瀬の守備へ派遣したこと、児玉実相・新納忠陸・平田宗次・吉田清家らが備えたこと、忠恒の帰国後の親征と八月十七・十八日の使者・檄の往来を記す。
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年月日未詳 / 冊子 427頁
『児玉氏乳後利昌譜』が、慶長四年の庄内の乱で、島津義久が富隈から平田狩野介宗応に兵を率いさせ、成渡瀬の守備へ派遣したこと、児玉実相・新納忠陸・平田宗次・吉田清家らが備えたこと、忠恒の帰国後の親征と八月十七・十八日の使者・檄の往来を記す。
年月日未詳 / 冊子 120頁
山田聖栄の自記。信濃国には忠義の三男・大炊介高久が住国し、この人物が中沼殿であると伝える短い系譜記事。
年月日未詳 / 冊子 554頁/原整理番号 562
元日付の石谷貞清書簡を、出水衆の小倉大炊介が島原から持ち帰って呈上したことを記す。書簡の詳しい内容は正月五日条に載せるとする。
年月日未詳 / 冊子 480~481頁/原整理番号 18
隅州帖佐郷地頭・良西(肥後房)から、子の信宗(太郎・大炊介)、宗光・宗弘・宗平・宗信へ続く系譜。信宗は父良西が帖佐郷地頭であったため初め帖佐を称したが、良西が地頭職を退いた後に薩州日置郡へ移住し、居所の平田を名字とした由緒を記す。平田家の小名字として寺師・松元・鍋倉・餅田・甑・平松・平山・長瀬を挙げ、藤崎・隈元両家が信宗以来の譜代家老役であったこと、鵜を扱うことと『ナツジ天井仕事』を忌む家伝を三十町別府川原での出来事に結びつけて伝える。
天正四年八月~ / 冊子 475~476頁/原整理番号 73
天正四年八月、伊東方の軍勢が田原山方面へ進出した際の戦闘を中心とする覚書。湯之尾・飯野周辺での軍勢の移動、交戦、討取などを記し、川上大炊介・次郎九郎らを証人として挙げる。田布施士下村甚右衛門文書に伝わる。
(慶長四年)正月十八日 / 冊子 350頁
前原貞能・宇多某が安楽大炊介へ、正月十六日の出撃と戦果を報告した連署状。頴娃左馬・敷仲兵・比志島宮内少輔らが大将となって敵五人を討ち、高城口からの追撃でも三人を討ち取って黒田加兵衛・新納勘解由・蘭牟田弥吉らが槍働きをしたこと、当日に陣替えを行うことを伝える。
年月日未詳 / 冊子 341~342頁/原整理番号 37
北村の内通に応じた城入りと、その後の戦いを詳しく記す覚書。北村地頭播磨守と三度協議し、正月十一日に少数の案内で城へ入ったが、蒲生勢が横から攻め、味方は大きな損害を受けた。岩陰や狭い道で戦いながら退き、播磨守は退却を相談した。新納忠元は主従三人ほどで大太刀を持って防戦し、貴久のもとへ参着して木脇・大炊介らと敵に当たったという。後には福嶋秋月への給付のため一時無知行となったこと、河辺野間の知行と永吉の地頭職を与えられたことも記す。
(寛永十三年)正月廿四日 / 冊子 532頁
寺田時岡が、日光への社参について大炊介が内々に申し上げたとおり必ず実施されるよう上申し、その件を心得ておくよう関係者へ伝えた書状。
八月五日 / 冊子 490頁/原整理番号 623-4
芦谷喜左衛門が、筑前守の付衆として高城衆中約40人、相良杢之助の付衆として隈之城衆中約10人、諏訪杢右衛門の付衆として中郷衆中約10人、猿渡大炊介の付衆として水引衆中約10人、高江衆中約5人を挙げ、計約75人が筑前守の長崎出船三日前に帰着したと記す。