北郷相久譜
天正六年十一月十二日 / 冊子 558頁
天正六年十一月十二日、島津義久が大友宗麟・義統父子と新納院高城で戦った際、大友軍の進撃が急になると、北郷相久が島津征久とともに敵の横手を攻め、大友軍を大破して敗走させた。
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天正六年十一月十二日 / 冊子 558頁
天正六年十一月十二日、島津義久が大友宗麟・義統父子と新納院高城で戦った際、大友軍の進撃が急になると、北郷相久が島津征久とともに敵の横手を攻め、大友軍を大破して敗走させた。
天正元年正月六日 / 冊子 297~298頁
天正元年正月六日、肝付氏の大軍が末吉へ侵入すると、北郷時久は二子相久・忠虎と兵を率いて住吉原で迎撃した。三将が自ら指揮して肝付軍を崩し、肝付修理亮・左兵衛尉、伊集院三河入道竹友、安楽因幡入道以下多数を討ち取った。敵の切捨人数は不明で、北郷方も川崎主税・田原大蔵信秀を失った。
天正元年正月六日 / 冊子 297~299頁
天正元年正月六日の住吉原合戦を詳述する。北郷時久は相久・忠虎と手勢を率いて不意に肝付軍を攻め、知覧久親ら各地の援軍とともに松山城戸口まで追撃し、伊集院竹友以下百五十一の首級を得た。味方も河野主税・田原信秀らを失った。この日が北郷家の僧礼日に当たり、急報のため簡略な酒礼を行ったことが龍峯寺門徒の正月六日の先例になったと伝える。
天正六年十月中旬 / 冊子 553頁
大友父子が高城を包囲すると、北郷時久は子の相久・忠虎に数千兵を率いさせ先鋒として鬼山を経て宮崎城へ進ませた。城内の内通者が伊東勘解由左衛門に敵兵を招き入れる計画を知らせたため、都於郡の河原田道場へ走ってこれを捕らえ、北郷久盛が奮戦して大敵を退け城を守った。
天正六年十一月十二日 / 冊子 558頁
十一月十二日、大友軍が島津義久の陣へ大軍で決戦を挑むと、北郷時久の子相久・忠虎が進んで戦った。北郷久盛は抜群の戦死を遂げ、村田経重・山中宗左衛門らも戦死したが、ついに大友軍を破り耳川まで追撃した。義久が深く賞し、京都へ伝わると飛鳥井雅継が書状を送った。
天正六年十一月十日~十三日 / 冊子 599~602頁
十一月十二日の根白坂・耳川合戦を詳述する。北郷相久・忠虎らが奮戦し久盛らが戦死、本田親治も討死して島津勢が一時退くが、義弘・征久・忠長・伊集院忠棟らが一瀬川で支えて反撃した。大友軍は深淵と耳川へ追い込まれ、佐伯氏ら多数の将兵を失った。家久も単騎で追撃し、十三日に義久が敵本陣で凱歌を挙げた。
天正元年 / 冊子 295~296頁
天正元年の主要記事を編年で記す。正月の住吉原合戦で北郷時久父子が肝付勢を破り、宝持院・八木昌信らの密使によって禰寝重長を肝付方から離反させ、二月に盟書を交わした。三月には禰寝氏と共同で肝付領へ出兵し、高洲・西俣で戦い、七月には肝付勢の早崎襲撃を島津家久らが撃退した。北郷氏の平松在陣、牛根城包囲、改元、琉球王尚永の即位なども記し、人物・系譜・典拠の考証を添える。
弘治2年10月5日 / 冊子 98~104頁/原整理番号 20-1
冒頭に弘治二年十月五日付の後奈良天皇口宣案を掲げ、権大僧都省釣(肝付兼続)を法印へ転任させる。上卿は中山大納言、奉者は蔵人頭左大弁頼房で、『家わけ二』肝付文書一七号と同文である。続いて前文書からつながる平岡氏系譜を収める。平岡義理は天正元年に日向国住吉原で北郷時久・相久・忠虎らとの合戦に討死し、義光は豊臣秀吉・徳川家康に仕えて子孫が旗本となった。義秀は島津義久に奉公し、天正六年の高城防衛と文禄元年の朝鮮出兵に従い、大崎横瀬村を賜る。義辰は慶長四年の恒吉城攻めに従軍し、のち串良杉尾口へ移された。以後、義長・義元・義彦・義遇・義敬・義業・義臣・義言・義堯・義源・義寄ら諸流について、寺院建立、知行・高山預、家督、養子・婚姻、医師・僧位、出生・没年・法名を詳記し、末尾は宝暦四年九月二十七日生の女子の記事で終わる。