山田氏系図
年月日未詳 / 冊子 142頁
『山田氏系図』の記事。友久を起点に、亀三郎丸・式部・孫三郎・掃部助・常陸守の名・称を掲げる簡略な系図。
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年月日未詳 / 冊子 142頁
『山田氏系図』の記事。友久を起点に、亀三郎丸・式部・孫三郎・掃部助・常陸守の名・称を掲げる簡略な系図。
元弘三年七月日 / 冊子 614頁
山田忠能と舎弟亀三郎丸が、薩摩国谷山郡山田・上別府両村地頭職について連署した申状。北条英時誅伐時に忠能父子・一族が軍忠を尽くしたと述べ、恩賞として所領安堵を求め、将来の亀鏡とするよう願う。
建武四年十一月三日 / 冊子 702頁
大隅式部亀三郎丸が一族を率いて市来院内横中原城郭を攻めた軍忠状。六月十一日の合戦で若党左衛門次郎友久が左腰を射られ、次いで阿多郡高橋・松原口でも戦い、九月の市来院城攻めにも参加したとして見知と証判を求める。
建武四年十一月三日 / 冊子 702頁
大隅式部亀三郎丸が市来院城郭で軍忠を尽くした軍忠状。九月十九日の合戦で大隅国小浜十郎を負傷させ、隠岐七郎行貞・遠矢次郎太郎らと進戦し、十月一日に阿多郡高橋松原口で合戦、若党左衛門次郎友久が右股を射られたことを述べる。
本文文書日付:建武四年十一月三日 / 冊子 621~622頁/原整理番号 一二九/整理ID TMP-P04-NIKAIDO-D0129
大隅亀三郎丸の軍忠状は、薩摩国凶徒との合戦を述べる。 凶徒等が伊作庄内の中原城郭に立籠ったと記し、高橋松原口での合戦を述べる。 軍忠と、隠岐七郎行貞・遠矢次郎太郎らの見知を記す。 建武四年十一月三日付である。
建武元年九月廿九日 / 冊子 628頁
山田忠能と亀三郎丸を、薩摩国谷山郡内山田・上別府両村の地頭職に補任し、当知行に相違がないよう命じた雑訴決断所下文。
年月日未詳 / 冊子 702頁
山田氏支流の友久について、亀三郎丸・式部孫三郎・掃部助・常陸守の名乗りと系統を掲げる系図記事。
建武3年4月28日 / 冊子 249~250頁/原整理番号 85
建武三年四月二十八日、肝付八郎兼重とその与党の誅伐のため大隅国へ発向した際、薩摩国一宮新田宮の執印又三郎友雄が軍忠を抽んじるため馳参したことを、御奉行所へ披露するよう求めた着到状。友雄は「惟宗友雄」と署名し、島津貞久が「承了」と記して判を据える。伊地知季安は前後三通の署名例と元徳三年文書の仲原尚友を比較して上原氏を中原姓と考証し、日置荘が南郷三十六町の没官御領と北郷三十町の宇佐八幡別当弥勒寺領に分かれたこと、島津忠久・小野太郎家綱・伊作田道材らの地頭・下司関係を検討する。さらに日置村中原坊・熊野三所権現、三浦氏の「尚」字、伊作荘中原城、有川氏系図などを対照し、上原氏の姓・地名・領主権の由来を論じる。
元弘三年八月五日 / 冊子 616~617頁
島津式部諸三郎忠能と亀三郎丸らが北条英時誅伐合戦で分取・生虜などの軍功を挙げたことを確認し、道慶方の注進どおりその功を披露するよう命じた後醍醐天皇の綸旨。
年月日未詳 / 冊子 692頁
川上頼久が京都へ上り、越前敦賀合戦で大隅前司久長入道道恵・大隅式部亀三郎友久・隠岐七郎行貞らと戦ったこと、益山十郎彦六らを抜いて軍功を挙げたことを記す川上頼久伝の記事。