HONPAN JINBUTSUSHI · SOURCE ARTICLE
本田九郎
異名・検索語:本田九郎/本田九郎 入道笑閑
試験導入中の史料別人物解説です
この解説は『本藩人物誌』の記事内容を整理したもので、一般的な人物伝や他史料を含む史実認定とは区別してください。今後の精読・原画像照合により更新される場合があります。
DESCRIPTION
本文内容説明
本田九郎は入道して笑閑といい、日新公に仕えた。大永七年の帖佐城主島津政雅の誅伐に供奉し、拝領の刀で政雅と家来の二人を玄関口で討ったという。永禄九年七月二日、軍功の褒美に伊作入来の原園と水田一町・畠地一町を拝領した。子の九郎は天文七年十二月二十九日に加世田で戦死。その子の掃部兵衛親広は耳川・九州・朝鮮に従軍し、慶長四年の伏見で伊集院幸侃誅殺時の近習番を務めた。親広は顔の古傷による眼病で盲目同然となり、同五年には高岡外城の与頭役として召し移された。高岡所在の小注は子孫についてで、笑閑本人の没年・没地は記されない。
系譜・人物関係
入道笑閑の子は九郎、その子は掃部兵衛親広。本文は其子で養子と断定しない。高岡所在の小注は子孫について。
奉公・役職
本人は日新公に奉公。永禄九年七月二日、伊作入来の原園、水田一町・畠地一町を拝領。孫親広は伏見近習番、慶長五年高岡外城与頭役。
軍役・事績
本人は大永七年の政雅誅伐に供奉し、政雅と家来の計二人を討ったという。子九郎は加世田戦死。孫親広は天正六年耳川、九州、朝鮮に供奉し、慶長四年伏見の幸侃誅殺時に近習番。
生没・法名等
笑閑本人の生没年・没地・墓所は不記載。子九郎は天文七年十二月二十九日加世田戦死。孫親広は顔の古傷から眼病となり盲目同然と記すが、生没年は不記載。
- 統合人物ID
- HP-1685
- 原人物ID群
- 03-051-02
- 氏・分類
- 本田
- 掲載巻頁
- 巻三:51
- 主題・活動
- 日新公奉公・軍功・子孫家譜
- 人物関係要約
- 入道笑閑の子は九郎、その子は掃部兵衛親広。本文は其子で養子と断定しない。高岡所在の小注は子孫について。
- 検索キーワード
- 本田/九郎/笑閑/日新公/大永七年/帖佐/島津政雅/玄関口/永禄九年/七月二日/伊作入来/原園/水田一町/畠地一町/天文七年/加世田/掃部兵衛親広/耳川/九州/高麗/慶長四年/伏見/伊集院幸侃/近習番/眼病/慶長五年/高岡外城/与頭/子孫
- 公開区分
- 公開可
- 精読・確認状況
- 従来記録:精読済(今回の再精読は未実施)
- 公開判定根拠
- 従来判定を継承。新基準による個別再判定は未実施。
- 説明作成区分
- AI用PDF全頁精読・原冊境界照合
- 本文境界判定
- 全1頁。見出しから親広の与頭役・召移候まで同記事。其子で二代続く子孫記事は独立の一・〇見出しなし。本文の三世代を区別して説明し、養子を補わない。前後の二郎五郎・親存を含まない。PDF修正・新規採番不要。
- 判読保留
- 旧養子を其子、本人高岡居住を子孫所在、政雅と家来二人を政雅と家来の計二人、白地を畠地へ訂正。當木甚右衛門の表記細部は公開文に採らない。眼病を両眼完全失明と断定しない。地頭志島国貞・与頭親広・相談役親存を区別。
出典:『鹿児島県史料集 第13集 本藩人物誌』