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HP-0233巻5:83注記付き公開可

HONPAN JINBUTSUSHI · SOURCE ARTICLE

鎌田政広

異名・検索語:鎌田政広/鎌田刑部左衛門尉政広

試験導入中の史料別人物解説です

この解説は『本藩人物誌』の記事内容を整理したもので、一般的な人物伝や他史料を含む史実認定とは区別してください。今後の精読・原画像照合により更新される場合があります。

注記付き公開可

未確定事項:旧説明の文禄四年没は確定しない。原字の年数は不鮮明で、干支巳・享年五十四歳から文禄二年が考えられるが推定とし本文説明では文禄年間とした。法号も細字判読を留保する。/秀吉の国分け案には国名・配分の修正小注がある。提案・伝達の叙述として扱い、実現した領有や政広自身の領地に置換しない。/文之和尚・伊集院忠棟・上井覚兼等の働きを本人単独の功績にしない。財部は帰着先であり没地ではない。

DESCRIPTION

本文内容説明

鎌田刑部左衛門尉政広は政年の子。天文九年生、母は山口式部少輔有親の女。志布志地頭・使役を務め、義久の代初めの犬追物では八疋を射たと記す。水俣・佐敷・白浜の守備、島原の竹崎城攻めに従軍。天正十三年冬、秀吉から九州の双方に戦を止めるよう求める書状が届くと、義久の返書を携えて文之和尚と上洛した。翌十四年正月二十三日に上洛し、秀吉に四度見参。九州の国分け案と返答がない場合の出兵予告を聞き、秀吉の案内で天守を見物し、五月二十日に日州財部へ帰着したと伝える。天正十年には山田新介と有馬へ使者に赴いた記事も付記する。文禄年間の四月十七日、五十四歳で没したと記すが、年数と法号の細字は判読を留保する。没地は明記されない。

系譜・人物関係

政年の子、天文九年生。母は山口式部少輔有親の女。刑部左衛門尉。

奉公・役職

志布志地頭・御使役。義久返書の使者として文之和尚と上洛。天正十年山田新介と有馬使者。

軍役・事績

義久代初め犬追物八疋。水俣・佐敷・白浜・竹崎城。天正十四年正月二十三日上洛、秀吉四度見参、国分け案と出兵予告を伝達、天守見物、五月二十日日州財部帰着。

生没・法名等

文禄年間四月十七日卒、五十四歳。年数細字留保、文禄二年は干支巳と享年からの推定にとどめる。法号細字留保、没地明記なし。

統合人物ID
HP-0233
原人物ID群
05-083-05
氏・分類
鎌田
掲載巻頁
巻5:83
主題・活動
系譜・奉公・役職・軍役・生没
人物関係要約
政年の子、天文九年生。母は山口式部少輔有親の女。刑部左衛門尉。
検索キーワード
天正/文禄/八代/卒/歳/家系・役職・奉公
公開区分
注記付き公開可
精読・確認状況
通常AI各全2頁・原冊83頁下段・拡大確認済。
公開判定根拠
使者派遣と国分け提案の伝達を具体化し、没年と法号の疑義を注記して公開する。
説明作成区分
AI用PDF全頁追加精読・原冊照合
本文境界判定
冊子83頁下段〇鎌田刑部左衛門尉政広から同段の死去・法号・天正十年有馬使者と八代帰着付記まで全2頁。第1頁末七月と第2頁冒頭ヨリ内ニが連続し、同一段を二矩形に分けたPDFである。次の〇鎌田杢介政常は独立条。末尾付記は政広の事績。PDF変更・新規IDなし。
判読保留
旧説明の文禄四年没は確定しない。原字の年数は不鮮明で、干支巳・享年五十四歳から文禄二年が考えられるが推定とし本文説明では文禄年間とした。法号も細字判読を留保する。/秀吉の国分け案には国名・配分の修正小注がある。提案・伝達の叙述として扱い、実現した領有や政広自身の領地に置換しない。/文之和尚・伊集院忠棟・上井覚兼等の働きを本人単独の功績にしない。財部は帰着先であり没地ではない。

出典:『鹿児島県史料集 第13集 本藩人物誌』