桜島炎上記
安永八年己亥十月(署記)、地震は九月廿九日夜から十月朔日(本文)/原整理番号 1636/整理ID 1636
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概要
正文在文庫とする櫻嶋炎上記。安永八年己亥九月廿九日夜から十月朔日にかけて、本府城下と東南北数十里の間で地震が頻発し、当日の未剋を過ぎると城下東方対岸の桜島が大いに炎上したと記す。地震と炎上が互いに応じたり激したりするようで、煙は万条に結び、怒濤や霊峰のように盛り上がり、光が空と海を赤く照らし、飛石・雷鳴・烈風のような音が昼夜続いた。火勢は五日後にやや弱まったが、三、四時おき、または一、二日を隔てて再燃したという。東北五、六里の海底からも炎が上がり、中洲が出現して水面上百丈余、周半里ほどとなり、一月を経て無事になったとする。城下では火石や海嘯を恐れ、家の周囲に荷をまとめ、動揺した。灰は風に従って城下の家、器皿、飲食物、樹木や竹に積もり、道を行く人の顔や目にも入り、西北風が多く東南風が少なかったため、城下の降灰は比較的少なく、垂水・牛根・福山など風下では沙が雨のように降り、石が屋根や菜蔬・草木を傷めたとする。海峡十余里の間には厚六尺ほど・半里ほどに及ぶ浮石が集まり、舟の往来を絶った。桜島の震動は他所の十倍ほどと表現し、家内に居ても舟に乗るようで、歩けば倒れ、盤石が霰のように落ち、短時間に五、六丈積み、灰燼が雨のように降り、その深さが二、三十尋に至るとも表現し、黒煙が四方を塞いだと記す。焼傷・押圧・埋没・混乱のほか、舟を争って溺れ、行先を失い、路上で倒れ、巖間で飢えるなどの死を述べ、数日後の戸口点検では島民死者が総じて百四十余人になったという。東北海上七、八里の間には死んだ魚や、焼け傷ついた遺体・漂着遺体もあったとする。島の十八村のうち、噴火が古里・有村・脇村・瀬戸・黒神・高面の六村の上に当たり、死者が多く、他の十二村は免れた者が多かった。海を渡って北の吉野へ逃れた者もあった。公は速やかに舟船数百隻を出し、老者を扶け幼者を携えて免れた者を二千余人とし、城下に営舎数十間を設け、倉実数百斛を出して食を与えた。初めて到着した者の露宿・餓死を免れさせ、さらに庫銭三千緡を支給したので、反って居処を営み産業を治めることができたと、公の島民に対する徳を称える。続いて、絶頂の権現社を山の主と称し、神が児を愛すると信じ、毎年祈って火災避けを期待していたのに、島が災いを起こしたのは民が自ら咎を招いて神が怒ったからなのかと問う。禍福を神だけで左右するのではなく、神も人に依って尊ばれ、「民者神の主也」と論じる。民が全て失われれば社も廃れるが、公の徳によって民が生命を保って帰郷し、神も再びこの土地で祀られるため、公の徳は民だけでなく神にも及ぶとする。公の平素の愛民と災害時の倉廩・府庫による救済を称え、一島の民にとどまらず一国の感応、天地・鬼神の感応と豊穣を期待する。山本正誼に命じて記録させたのは非常の災いを伝えるためで、続日本紀の天平宝字八年十二月、海に砂石が集まり四阿の屋根のような島が現れた記録を、その位置と形から桜島と考え、文明八年の炎上は福昌寺所蔵旧記に見えるとする。千余年の間に炎上二度という叙述と、土中の硫黄による発火の説明を添える。天災は予防し得ないが、非常の災いに際して公が非常の徳で救うことは伝えるべきだと述べ、画工に炎上の図二枚、一枚は昼、一枚は夜の景観を描かせ、言葉では表しにくい様子を示して読者が自ら見るようにしたと記す。署記は安永八年己亥十月、知学事臣山本正誼謹記。署記後の付録には、倉庫を開いて島民を救った際、城下の富商大賈も競って救済し、銭若干緡で衣服を買って与え、米若干斛で粥を作って養い、粟若干斛を官に納めて振貸の用に充てた者があったとする。各人の名は「某」とされ、上の仁と下の義をともに示すため付録したと結ぶ。
登場人物
知学事臣山本正誼(著者・署記)、公(重豪、巻の文脈)、桜島島民、城下の人民、富商大賈、権現社の神、画工(無名)
宛先
独立宛名記載なし
キーワード
九月廿九夜地震十月朔未剋炎上、海底中洲形成、降灰風向、浮石舟路遮断、島民死者百四十余、十八村六村被害、舟数百隻二千余人救出、営舎数十間倉実数百斛庫銭三千緡、権現信仰批判民者神之主、公愛民、昼夜図二枚、山本正誼署記、商人衣服粥粟振貸付録
冊子頁
578~581頁
読込量
特大
面白さ
★★★★★
(4)451~615頁(安永4~天明元).pdf