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追録6-No.1635記事旧記雑録暫定版・確認中

桜島地震噴火す

安永八年十月朔日(同年は目録・前記事、後半に過去の噴火記録)/原整理番号 1635/整理ID 1635

確認度中
この文書は暫定版です

現在、内容を確認中です。概要・人物・宛先・キーワード等は後日修正される可能性があります。

概要

重豪公御譜中の記事。同年十月朔日、桜島で地震が起きて火を発し、たちまち盛んになって烈焔が空に満ち、砂石が谷を埋めたと記す。「余」はただちに有司に命じ、舟数十艘を用意して島民を載せ、城下へ運んだ人数を「数十百人」とする。仮に粥廠若干間を設けて収容し、衣食を与え、さらに庫銭数千緡を出し、一人につき銭若干を与えて帰還させた。富商大賈にも米銭や衣食を出して争って救う者が多く、被災者に露宿・飢餓の患いがなく、皆が復業できたとする。一方、噴火当初は巨石が飛び積巖が崩れ、勢いが激しく急だったため、島民には頭や額の焼傷、脇・歯の損傷を受け、溪壑の間で倒れて死んだ者も多かったという。救出人数は原表現の「数十百人」で、具体的な数は不詳であり、死者の総数や支給額の個別数は記されない。続いて桜島は鹿児島の海上にあり、盤根七里・絶頂千尋、一名向島と説明する。続日本紀の天平宝字八年十二月の記事として、四方の雷に似た声、大隅・薩摩の間の煙塵と電光、七日後に晴れると海に砂石が集まって島となり、四阿の屋根のように見えたとの記録を引く。近世の辞を作る者がこの島を天平島または宝字山と呼ぶとし、引用中の鹿島には鹿児島、信爾村には現にその村がなく所在不明という小注を添える。また文明八年の桜島発火は福昌寺日暦と桂庵禅師の詩に見えるとする。桂庵について、周防の人で、文明中に乱を避け薩摩へ来て、志布志大慈寺・財部正寿寺・国分正興寺に住み、後に鹿児島桂樹院に住したこと、今の桂寿院とは別であること、島陰漁唱三巻の著者であることを小注に記す。島の東南を燃崎といい、砂石が皆黒いのは当時焼けた跡、土中の硫磺気によって時に火を発するのだろうと説明する。最後に、天平宝字八年からこの年まで千余年の間に火を発したのは二度であり、非常の災いと言えると評する。

登場人物

重豪(御譜の余)、有司、桜島の被災島民、富商大賈、桂庵禅師(過去の噴火記録に関する小注)

宛先

独立宛名記載なし

キーワード

十月朔地震噴火、舟数十艘数十百人救出、粥廠若干間衣食、庫銭数千緡一人銭若干帰還、商人米銭衣食救済、復業と死傷、向島、続日本紀天平宝字八年、文明八年桂庵詩、燃崎硫磺気

冊子頁

577~578頁

読込量

小

面白さ

★★★★★

原文を確認

(4)451~615頁(安永4~天明元).pdf