桜島炎上記
安永八年亥九月十九日から安永十年辛丑三月十八日までの記録/原整理番号 1633/整理ID 1633
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概要
桜島池田氏蔵年代記による記録。安永八年亥九月十九日夜入五ツ時分に地震があり、十月朔日四時分まで止まらず、四ツ半過ぎに嶽白水の後ろで権現宮に当たる方向に煙を認め、八ツ時分から有村上の燃ノ頭辺に黒煙、続いて高免村上の瓶掛辺から燃え出たとする。高免沖に島二つ、十一月六日夜に島一つ、十二月十一日晚に島一つが出て高く広くなり、翌年四月八日には白砂島で島二つが湧き出たと記す。十月朔日には炎火・大石・軽石・砂灰が巻き上がって五日間降り、高免から古里の人々は谷山・喜入・今和泉・垂水・牛根・福山・国分内の小村へ逃れ、湯ノ村から白濱の人々は鹿児島の磯・脇元・重富へ逃れた。十月七・八日から帰った者もあるが、燃元に近い白濱村・湯ノ村は中旬まで戻れず、逃れた遠外城で賄いを受け、その後米を与えられた。古里から高免の家々は焼け、元の場所で住めないため、鹿児島の砂糖蔵内に木屋を掛け「明蔵六ツ」へ入れ置き、瀬戸村の人は上築地の池田庄右衛門明屋敷の木屋三つ、松岡伊右衛門屋敷の木屋一つに入れたと記す。給米は原に「取付三日壱人三合五夕ッ」、その三日には刊注「壱日カ」があり、その後は五合ずつ、薪も与えたとする。人数欄は二千三百三十四人、衆中四百三十五人(上男百九十八・下男四十四・上女百五十五・下女三十八)、社人三十九人、百姓千八百六十人とする。社人の小字内訳は男二十一・下人一・女十二・下女一で総数と一致しない。死者は別に百四十七人、小字は衆中二十四人(上男九・下男三・上女十一・下女一)、百姓百二十一人(男六十一・女六十)を記し、記された区分の合計は百四十五人で、総数との関係が不詳である。安永九年子八月十一日夜九ツ時分には大煙と光・大きな音、浪三丈ほど、小池濱辺で二丈ほどの浪を記し、白濱村の者が避難した後静まり、砂島が大きくなったとする。同年十月四日夜四ツ時前の燃え・遠炎・大音・大浪も記す。安永十年辛丑三月十八日暮七ツ時分には高免村前の新しい島が燃え、泥を吹き上げ、津浪があり、白濱村の男五人・女一人が波に引かれて死んだとする。後年の波による六人の死亡は別の条で記される。
登場人物
池田氏(所蔵者の表示)、池田庄右衛門・松岡伊右衛門(屋敷名として出る)、避難者・衆中・社人・百姓(集計区分)、白濱村の男五人・女一人(安永十年の波引)
宛先
独立宛名記載なし
キーワード
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冊子頁
575~576頁
読込量
中
面白さ
★★★★★
(4)451~615頁(安永4~天明元).pdf