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島津世禄記の目録
旧記雑録とは区別して収録する関連史料(外伝)です。
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島津世禄記-A01 貴久主受禅於忠兼主事
島津忠昌の子忠治・忠隆・忠兼(のち勝久)へと家督が移った経緯を述べ、忠兼の失政と実久との対立を背景に、島津忠良へ国政再建が託された事情を記す。忠兼は忠良に南郷を与え、さらに忠良の嫡男虎寿丸を養子に迎えるよう求めた。忠良は再三辞退したが命を拒みきれず、虎寿丸を鹿児島へ伴う。大永六年、忠兼が虎寿丸へ家督…
島津世禄記-A02 渋川実久之謀事
帖佐城主渋川氏が島津家累代の臣でありながら実久方に通じ、本城・新城を拠点に反抗した事件を扱う。忠良は大永六年十二月に鹿児島を発し、吉田で軍備を整えて両城を攻撃した。実久方の援軍は高尾方面で繰り返し防戦したが敗れ、新城も陥落する。退却者の多くが城濠や柵、火災によって死傷したと戦場の惨状を記し、反逆が自…
島津世禄記-A03 忠兼主隠伊作後変約事
忠兼が政務から退き伊作へ移るまでの交渉と、その後の盟約破棄を記す。忠兼は若い貴久に国政を委ね、自身は静穏な隠居地を求めた。忠良は市来・伊集院・加治木・帖佐などを示したが、最終的に忠良家累代の地である伊作を譲り、忠兼は鹿児島から移住した。しかし実久が忠兼を擁して再び鹿児島へ迎え、日置・伊集院を攻めたた…
島津世禄記-A04 忠良陥南郷誅山田某事 付 川上諫勝久後逢害事 并 勝久出奔之事
勝久方へ転じた知覧・川辺の兵や桑波田孫六らに対し、忠良が宴の隙を突いて南郷城を奪い、永吉と改めたことから始まる。勝久が忠良討伐を企てると園田五郎兵衛尉が密告し、貴久は永吉城へ入り、忠良も田布施から急行して守った。帰参した山田式部少輔は過去の背反を後世への戒めとするため伊作で処刑され、漢高祖が丁公を斬…
島津世禄記-A05 陥伊集院事 付 忠良会実久後陥加世田城事
天文五年、忠良父子が伊集院攻略を進め、伊集院大和守を将として大田原の塁を襲い、神殿・石谷・竹山などの拠点を相次いで服属させた。雨中の進軍時に火光のような瑞兆が現れ、稲荷大明神の加護と解釈されたことも記す。実久勢は鹿児島・谷山から川辺方面へ退き、忠良は実久と会見して、伊集院・鹿児島・谷山と加世田・川辺…
島津世禄記-A06 貴久征溪山又陥市来城事
天文八年、貴久・忠良方が溪山方面を攻め、敵方の本城・神前・高城などを順次服属させた経過を記す。溪山駿河守・伊集院山城守・松崎丹後守らが降り、高城主鎌田加賀守も帰順したため、忠良は新納伊勢守らに城地を預けて支配を固めた。六月、貴久は自ら市来へ進み、平城を容易に破って陣所とし、大日寺前の合戦では喜入忠俊…
島津世禄記-A07 種子島父子不和之事 付 攻加治木事
種子島加賀守恵時と子の左近大夫直時が不和となり、直時が貴久へ援助を求めた事件と、加治木攻めを併記する。貴久は新納伊勢守を大将に小勢を派遣し、軍は硫黄島を経て屋久島へ着く。恵時も種子島から来て身柄を貴久に委ねようとするが、貴久は他人の所領を貪らず、父子を和解させて帰島させたため、種子島氏は以後その恩を…
島津世禄記-A08 忠廣献市成事 付 重聰假威事
天文十三年、大隅市成の山田加賀守忠廣が市成の地を貴久へ献上し、貴久は忠節を評価して肝付氏へ直ちに与えたことを記す。続いて入来院石見守重聰を論じる。重聰はたびたび軍勢を率いて島津方を助け、忠良はその娘を貴久の妻としたため、川内・伊集院郡山などを領する有力者となった。しかし重聰は姻戚関係と勢威を恃み、狐…
島津世禄記-A09 立貴久定為太守事 付 近衛殿下賜玉札御衣事 并 高祖為藤原姓事
勝久がいったん貴久を後継者としながら讒言によって前約を変えた経緯を踏まえ、天文十四年、島津一門・旧臣が貴久を太守に立てたことを記す。貴久は三郎左衛門尉を称し、家中・領民の支持を得た中興の太守として称揚される。京都の近衛家からは日野左大弁少弼が下向し、玉札と天皇の御衣を伝えた。後半は島津氏の姓氏由緒を…
島津世禄記-A10 本田驕満之事 付 止八幡神社炎上事 并 忠明征飫肥事
清水城主本田紀伊守親康が累代の恩を忘れ、主命や身分秩序を軽視して驕奢・殺戮を重ねたため、家臣が離反し、姫城・清水をめぐる戦いに至ったことを記す。親康は又次郎を無断で左京大夫と称させ、伊地知又八郎・本田又九郎らを殺し、本田刑部少輔は姫城に拠って清水への道を断った。大永七年、本田党と新納近江守が八幡神社…
島津世禄記-A11 加治木蒲生渋谷和睦之事 付 貴久昇進之事
天文十八年、加治木城主肝付越前守が蒲生・渋谷勢と結び、貴久への礼を欠いたため、貴久が伊集院忠明を進ませて黒川崎に陣を築かせた。肝付方も向かいに陣を構えたが、陣中で火災が起こり、肝付・渋谷・蒲生方は動揺して北郷忠相と菱刈氏を介して降伏を求めた。貴久はこれを赦し、肝付父子・蒲生・渋谷らは清水で謁見する。…
島津世禄記-A12 蒲生渋谷攻加治木事 付 貴久主父子征平松事
加治木・帖佐の反島津勢力が再起し、蒲生・渋谷・祁答院・入来院・菱刈・北原らが連携して肝付氏の加治木城を攻めたことから、貴久父子が平松・帖佐方面で長期戦を行った経過を記す。天文二十三年、網掛川、平松、岩野原などで戦闘が続き、貴久は尚久・忠平(のち義弘)らを配置した。十月二日の平松合戦では島津方が大敗し…
島津世禄記-A13 蒲生退治之事
弘治二年、貴久が蒲生氏の本城と松坂の要害を攻めた戦いを記す。城は険阻で守りも堅かったが、義久に続く若い忠平(後の義弘)が城門へ迫り、敵と組み合って初めて首級を得た。鎧には五本の矢を受けていたとされ、二十二歳の忠平の武勇を強調する。蒲生を支援する菱刈氏に対しても、貴久・義久・忠将・尚久らが出陣し、山地…
島津世禄記-A14 島津忠廉住日州飫肥事 付 肝付謀叛之事
島津忠国の弟季久の子忠廉が文明十八年から日向飫肥に居住した由緒と、永禄三年の将軍上使伊勢備後守による島津・伊東間和平交渉を詳録する。上使は飫肥を公領として和睦させようとするが、樺山善久ら島津方は、飫肥が頼朝以来の島津領であり伊東領ではないと反論し、伊東が飫肥へ手を出さないことや大友氏との協調を条件と…
島津世禄記-A15 忠平入護真幸院事付北原伊勢介誅伐之事
真幸院の北原氏で当主が没し、家中が分裂して政道が乱れたことから、白坂氏らが領地を島津へ献じ、忠平が飯野へ入った経緯を記す。伊東・相良勢力が北原旧領へ介入するなか、横川城の北原伊勢介父子は島津方へ従わなかった。忠平は霧島山麓を迂回して飯野を確保し、貴久も溝辺から援軍を送る。横川城攻撃では新納忠元、伊集…
島津世禄記-A16 貴久主任陸奥守義久主任修理大夫并貴久主剃髪之事付征三ノ山且陥馬越城事
永禄七年に貴久が陸奥守、義久が修理大夫へ任じられた宣旨と、貴久の剃髪を掲げた後、真幸院・菱刈方面の戦いを記す。伊東氏が三山に要害を築いて飯野の忠平を圧迫し、島津方はいったん攻略に失敗して戦死者を出した。続いて菱刈氏が恩に背き相良氏と結んだため、貴久・義久父子は栗野へ出陣し、忠平は飯野から馬越へ進む。…
島津世禄記-A17 忠平設伏兵却失勢事付凶徒来市山事
永禄十一年、忠平が大口勢を誘い出すため伏兵を置いたが、戦況が不利となった一連の戦いを記す。忠平は敵将別府安芸守を弓で射倒したものの、川上久朗らが戦死し、自軍は退却を余儀なくされた。歳久・伊集院久治らの援軍も交戦し、忠平は辛うじて曾木城へ入る。その後、忠長・肝付兼寛・新納忠元らが市山から大口城をうかが…
島津世禄記-A18 凶徒攻曾木事付侵市山事
相良・菱刈・入来院・祁答院・東郷の諸勢力が連携し、曾木城と市山を攻めた事件を記す。宮原筑前守・佐多久政らが曾木城を守って敵を退け、敵方に数十人の損害を与えた。敵が馬越を経て市山へ進むと、負傷中の新納忠元も出陣し、白坂・永福寺方面で防戦した。敵の赤衣の先鋒に対して鉄砲を放ち、これを倒したことで敵勢は退…
島津世禄記-A19 大口凶徒再変和而伊東築陣事付忠良逝去之事并大口退治之事
大口勢が和議を破り、伊東氏も飯野・桶比良へ陣を築いたことから再戦となった経緯を記す。島津方は伊東陣を揶揄する狂歌を送り、貴久も出陣を図るが、長雨や兵の動揺のため作戦は進まなかった。その間に大口勢が守兵を襲い、双方に死者を出す。同年十二月、島津忠良が死去し、法号・称号が記される。翌年、忠平の弟家久、新…
島津世禄記-A20 渋谷降参事付貴久主逝去之事并伊東之軍来加久藤敗北之事
渋谷一族が領地を挙げて島津方へ降参し、隈城・平佐・高江・水引・湯田・西方などの支配と地頭配置が再編されたことを記す。元亀二年には貴久が五十八歳で死去し、法号を掲げる。翌年、伊東義祐の大軍が飯野・加久藤へ侵攻すると、忠平は少数の騎兵で木崎原に迎撃した。伊東又次郎・落合源左衛門尉ら主要将を討ち、田原陣も…
島津世禄記-A21 肝付退治之事
肝付兼続・禰寝重長・伊地知重興ら大隅の反島津勢力を討った長期戦を記す。義久は歳久らを派遣して小浜・古江方面を攻めるが、戦況は容易に決しなかった。そこで八木昌信が僧に同行して禰寝重長と秘密交渉し、婚姻を含む条件で降参を取り付ける。島津軍は高洲浦から肝付領へ進み、父忠将の仇を討とうとする征久らが先鋒とな…
島津世禄記-A22 日州平治之事
日向平定の過程を、高原・野尻・戸崎・石城の攻略を軸に記す。高原城は霧島山東麓にあり、伊東勢が島津領へ侵入する拠点となっていた。義久・忠平らは天正四年に攻撃し、軽率に城へ迫った兵に損害を出したものの、念仏寺を介した講和で城を受け取る。高崎・三山・須木など周辺八か所も島津方へ属した。伊東家中では義祐の暴…
島津世禄記-A23 大友侵日州高城敗北之事
天正六年、大友義統・義鎮父子が豊後・肥後・筑前などの大軍を率いて日向へ侵攻し、高城を包囲した戦いを記す。高城では山田有信を中心とする島津方の守兵が、兵糧や水の不足に耐えて防戦した。義久は諸軍を集め、家久らを前面に出して大友軍と対峙する。十一月の決戦では、島津軍が釣り野伏などの機動的な戦法で敵を誘い崩…
島津世禄記-A24 城親政服我旗下事付宝之川内岩穴札矢崎陥事
大友氏の衰勢を受け、肥後熊本城主の城親政が島津方へ服属し、周辺国人も相次いで来附したことを記す。島津方は佐多久政らを熊本へ派遣し、宇土・天草・栖本・大矢野・志岐などの勢力を従える。一方、相良義陽は大友方と結び、日向侵攻にも加担したため、新納忠元らが宝川内を攻め、岩牟礼・釘野の要害をめぐって矢に歌を書…
島津世禄記-A25 義久主昇進付相良義陽心服之事
義久が従四位下へ昇進した宣旨を掲げた後、長年敵対してきた相良義陽を服属させた経緯を記す。義久は大軍を肥後八代方面へ進め、義弘・征久・歳久・義虎らに各陣を担当させて佐敷周辺を包囲した。兵力と陣構えに圧倒された義陽は津奈木・湯浦・佐敷など五か所を差し出して降伏し、嫡子には島津氏の「忠」字を与えられた。そ…
島津世禄記-A26 救田尻某救有馬某討捕隆信事
肥後の田尻氏と肥前の有馬氏を救援し、龍造寺隆信を討った経過を記す。隆信に攻められた田尻氏の要請で島津軍が肥後へ進出するが、遠征軍は兵糧・装備が不足して一度撤退した。続いて有馬氏の救援要請を受け、新納忠堯・川上忠堅らを安徳へ送るが、深江攻撃で忠堯が戦死する。翌天正十二年、家久を大将に忠豊・彰久・忠長・…
島津世禄記-A27 合志隈部宇土動等属我旗下事付高森合心於豊後事并忠平守護代之後称義弘事
天正十二年以降、合志・隈部・宇土をはじめ肥後・筑後・筑前の諸勢力が島津方へ服属し、忠平が守護代となって義弘を称した経緯を中心に記す。義弘は熊本・高森方面へ出陣し、赤星・大津山・和仁・小代・秋月・原田などの国人を従える。阿蘇方が花山を攻めると義久も八代へ進み、甲佐・堅志田・御船を攻略し、反島津の合志氏…
島津世禄記-A28 豊後征伐之事 付 九州配分之事 并 秀吉公発向九州事
伊東氏を保護した大友氏が秀吉へ島津征伐を求めたことに対し、義久が先に豊後へ攻め入った経過と、秀吉の九州国分け・征伐命令を記す。入田宗和・志賀道益ら大友方内部の離反を受け、新納忠元が密使を送り、天正十四年十月、義弘を大将とする三万七百余騎が肥後側から豊後へ進む。義弘勢は野尻・高城・津賀牟礼・松尾・鳥嶽…
島津世禄記-A29 羽柴美濃守攻高城我軍攻根白坂事付義久主見秀吉公賜宝剣朱印義弘久保亦賜朱印事
秀吉の弟羽柴秀長が大軍で日向高城を包囲し、島津軍が根白坂の豊臣方陣地を攻めた戦いと、その後の降伏・所領安堵を記す。高城では山田有信らが堅守し、義久・義弘・家久・歳久・忠元らが救援に向かった。根白坂の戦いでは豊臣方の堅固な陣と圧倒的兵力に阻まれ、島津方は多数の死傷者を出して退く。安国寺恵瓊らの仲介もあ…
島津世禄記-A30 分九州賜諸侯事付義久上洛之事
秀吉が博多滞在中に九州諸国を諸大名へ配分した内容と、義久の上洛を記す。筑前・筑後・豊前・日向・肥後などが小早川・立花・黒田・伊東・秋月・相良らへ割り当てられ、島津氏は六州制覇の望みを失ったものの、薩摩・大隅・日向の家領が安定したことを慰めとする。木食応其の督促を受けた義久は鹿児島を発ち、牛屎院・佐敷…
島津世禄記-A31 佐々陸奥守謀叛之事付義弘昇進并義久賜朱印等之事
肥後一国を与えられた佐々成政が国人・百姓への苛政によって一揆を招き、豊臣政権と九州諸大名がこれを鎮圧した経過を記す。義弘は肥後へ進軍し、相良方に道を阻まれるが、安国寺恵瓊らの調停を経て一揆討伐に参加する。浅野長政・加藤清正らの軍によって反乱が平定され、肥後国人は処刑・所領没収となり、成政も尼崎で切腹…
島津世禄記-A32 征伐朝鮮事付梅北謀叛并歳久自殺及薩隅日検地之事
朝鮮征伐の背景と軍役命令、梅北一揆と歳久自殺、薩摩・大隅・日向諸県郡の太閤検地・知行配分をまとめた大部の記事である。冒頭では朝鮮八道の位置・州郡数・地理・物産・中国との関係を説明し、薩摩が朝鮮に近いことを踏まえて秀吉が島津氏へ鉄砲・兵船・兵粮・奉公人を整え、名護屋・壱岐・対馬を経て渡海するよう命じた…
島津世禄記-A33 義弘主父子軍功之事付久保逝去之後忠恒継家統護朝鮮事并人数帳之事
朝鮮在陣中の義弘・久保父子の軍功、久保の死と忠恒の家督継承、豊臣軍の人数・配置を記す。まず秀吉の軍法を掲げ、放火・人取り・百姓への非分な課役を禁じ、兵粮管理、飢民救済、城郭普請など占領地統治の規則を示す。久保は忠清道で敵を単騎追撃して首級を得たとされる一方、秀吉の朱印状には木曾城・釜山浦・金海・加徳…
島津世禄記-A34 破番船陥南原事
慶長二年、義弘・忠恒父子が朝鮮沿岸の敵船団を攻撃し、続いて南原城を攻略した経過を記す。巨済付近で日本軍の往来を遮断していた朝鮮水軍に対し、夜襲で百六十余艘を焼き、多数を海際まで追撃したとする。この戦果に秀吉は朱印状で賞し、明軍が進出した場合は軽挙せず対陣して注進せよと命じた。八月、諸将が南原城を包囲…
島津世禄記-A35 大明加執之軍於泗川敗北之事
慶長三年の泗川の戦いを記す。明軍は降伏を勧める書状を送り、朝鮮侵攻による疲弊や退路遮断を説くが、義弘は勝敗は戦って決すべきだとして拒絶する。明軍が晋州から泗川旧館を攻め、相良玄蕃助ら百余人が戦死すると、島津軍は新城へ退いて門を閉ざし、敵の攻撃を待った。十月朔日、明軍が大砲・鼓を用いて攻め寄せた際、城…
島津世禄記-A36 議立花寺沢等救五家事并臨散軍直赴洛謁家康事
泗川勝利後、明・朝鮮軍に包囲された小西行長・大村・五島・有馬・松浦の五家を救い、日本へ撤兵した経過を記す。義弘・忠恒は、五家を見捨てれば日本軍全体の威信を失うとして、立花宗茂・高橋直次・寺沢広高らと軍船を整え、順天方面へ向かう。海戦では火器・矢石が飛び交い、多数の戦死者を出しながら敵船へ乗り移って首…
島津世禄記-A37 忠恒主手誅忠棟事付就其子久虎構城而相攻之事
忠恒が伏見の茶亭で伊集院忠棟を自ら討ち、その子久真(久詮)が都城を中心に反乱した庄内の乱を記す。忠棟は秀吉から薩隅日三州内八万石を与えられて権勢を誇り、主家を凌ぐ陰謀があると見なされた。忠恒は忠棟を斬るが、太閤朱印を受けた者への私刑であったため高雄山で罪を待ち、家康・五大老の裁定で許される。久真は財…
島津世禄記-A38 義弘主強与石田之謀事
関ヶ原合戦で義弘が石田三成方に属し、敗戦後に敵中突破して帰国した経過を記す。義弘は本来、家康と秀頼への忠節・相互不害を誓う起請文を交わし、伏見城を守ろうとしたが、鳥居元忠・内藤家長に入城を拒まれ、身を守るためやむなく石田方へ加わったと弁明される。九月十五日の関ヶ原では小早川勢の寝返りで西軍が崩れ、島…
島津世禄記-A39 稲津起兵事 付 水俣船軍之事
関ヶ原合戦後、義弘が日向美々津へ帰着した時、伊東氏旧臣で清武の宰である稲津掃部助が黒田長政の命と称して兵を挙げ、穆佐城を奪おうとした事件を記す。稲津は使者が帰らないことを怪しみ、先に宮崎城を落として城代権藤平左衛門とその子らを討ち、穆佐内的野村へ侵入した。十月四日には穆佐城を攻めるが失敗して退き、追…
島津世禄記-A40 義久主義弘不和之事付忠恒上洛之事
関ヶ原で西軍に属した義弘と、これを責める義久の不和、忠恒の上洛による島津家存続の確定を記す。義久は家康との誓約に反して石田方へ付いた義弘を非難し、義弘は伏見城への入城を拒まれてやむなく従ったと弁明する。寺沢広高・山口直友・井伊直政らは義久・忠恒へ事情説明と出仕を求め、本田正信らも義弘の本意ではないこ…
島津世禄記-A41 忠恒主賜松平氏号薩摩守家久事付琉球征伐之事且義久主逝去之事
忠恒が家康・秀忠から松平氏と家康の「家」の字を与えられて家久と改名し、琉球を征服した後、義久が死去するまでを記す。琉球が従来の貢納を怠ったとして、慶長十四年、樺山久高を大将、平田増宗を副将とする三千余人・百余艘を派遣する。軍は奄美大島・徳之島を制圧し、沖縄本島では那覇港の防備を避けて上陸、首里城を囲…
島津世禄記-A42 秀頼公与家康公不和之事付大坂之城陥事
大坂の陣に際し、豊臣秀頼が家久へ援軍を求めたのに対し、島津家が徳川方への忠節を選んだ経過を記す。慶長十九年、大仏供養をめぐる家康との対立から、秀頼・大野治長らは家久に上洛を促し、重代の正宗脇指まで贈って加勢を求めた。義弘は、秀吉によって九州の所領を削られた過去と、関ヶ原後に家康が島津領を安堵した恩を…
島津世禄記-A43 家久主任参議事付就智仁親王催歌会事并義弘主逝去之事
家久の参議任官、八条宮智仁親王邸での和歌会、義弘の死去を記す。元和三年、家久は二条城で秀忠から参議任官を告げられ、左近衛権中将兼参議となる。のち参内に供奉し、琴と尺八を賜った。元和五年、家久は智仁親王邸で歌会開催を願い、親王・公家・歌人らが「治まれる世」と和歌の道を題に詠んだ歌を列挙する。家久自身の…
島津世禄記-A44 家久主妹得赦事 付 家久主父子詣江城事 并 家久主任権中納言事
元和五年、家久の嗣子忠元(のち光久)の弟忠平が四歳で江戸幕府の人質となっていたこと、家久の妹が赦免されて帰国したことを記す。妹は娘を松平河内守定行へ嫁がせた後、京都・大坂を経て薩州谷山へ着いた。寛永元年十二月、家久は妻妾、嗣子忠元、弟久貞らを伴って江戸へ赴き、その後忠平は帰国を許された。翌年、忠元の…
島津世禄記-A45 将軍渡御於家久館事
寛永七年四月、将軍家光と大御所秀忠が江戸桜田の家久邸へ相次いで御成した際の記録抜書である。十八日の家光御成では、古田織部の指図を写した数寄屋で茶を供し、楚石の掛物、平野肩衝、高麗茶碗、利休作茶杓、信楽水指、車軸釜などの道具を列挙する。鎖の間・御寝殿・書院・会所・湯殿に至るまで、床飾、絵画、香炉、硯、…
島津世禄記-A46 家久主転任大隅守并又三郎忠元兄弟加冠之事付将軍改旧印賜其目録事
寛永八年、家久の大隅守任官と嫡子忠元の元服・光久改名、将軍による旧領安堵を記す。秀忠は家久を大隅守に任じ、忠元に松平氏と「光」の偏諱を与えて松平薩摩守光久とし、侍従・従四位下に叙した。弟たちも式部大輔・玄蕃頭に任じられ、父子兄弟は秀忠・家光から国綱・左文字・長光などの刀剣を拝領する。これに対する謝礼…
島津世禄記-A47 中納言家久主薨逝之事付光久主得家督事
家久の長患いと死去、光久の家督相続を記す。寛永十三年以降、家光は久志本式部少輔・慶祐法印・意徳法眼ら医師を薩摩へ送り、さらに上使と鶴を賜って家久を見舞った。家久は病床で、徳川三代の厚恩に死節で報いることができない旨を土井利勝へ伝えさせる。寛永十五年、島原・天草一揆の討伐を命じられた光久は有馬まで赴く…
島津世禄記-A48 光久主為家督帰国并賜上使事付金山之事
光久が家督を継いで帰国し、幕府上使を迎えたことと、永野金山の発見・献上を記す。寛永十六年、家光は光久に亡父家久の跡を継ぎ、国を治め民を安んずるよう命じ、銀千枚・衣服百領・馬を与えた。光久は江戸で謝礼を済ませ、六月に鹿児島へ帰城して家臣・領民の歓迎を受ける。その後再び江戸へ参府中、伊佐郡祁答院永野郷で…
島津世禄記-A49 琉球国八重山島異国人来事
琉球国八重山島の地理と、異国船の漂着・処置を記す。八重山島は首里から百七十四里離れ、南風で渡り北風で帰るため往復は年一度ほどと説明する。寛永十六年八月十八日、石垣港へ福州の船が漂着し、大明人十四人・南蛮人六十八人が乗っていた。通事は、呂宋から高砂へ渡る途中に逆風を受けて漂着したと述べる。島役人は彼ら…
島津世禄記-A50 島津家系図之事付若君誕生之事
島津家系図の幕府提出と、将軍家光に男子が誕生した際の祝賀を記す。寛永十八年、光久が帰国の暇を得た折、太田資宗から諸大名同様に島津家の系図を上覧へ備えるよう命じられる。光久は帰国後、島津久慶・久通・川上久国・喜入忠政・野村元綱らに累代系図の校訂を命じる。並行して家光の若君誕生を祝い、江戸留守居の島津久…
島津世禄記-A51 虎寿丸号又三郎事 付 移農夫於天草島原事 并 甑島南蛮人来事
光久の江戸参府、嗣子虎寿丸の改名、天草・島原への農民移住、甑島での南蛮人捕縛を記す。病床の島津久元は、参府に随行する子久通へ、主君に身を尽くし友人には信を守るよう遺訓した。光久は江戸で家光と嗣君へ進献し、六月二十八日、虎寿丸は又三郎久平と称した。島原・天草一揆後の荒廃を受け、松平信綱の奉書により、農…
島津世禄記-A52 永野金山相止事付朝鮮之信使謁江城事
寛永二十年、幕府老中の命によって永野金山の採掘を停止したこと、光久の帰国、朝鮮通信使の江戸登城を記す。光久は家光から銀千枚・衣服百領・栗毛馬、嗣君から衣服五十領を賜り、謝礼後に薩摩へ向かう。江戸留守居には島津久通を残し、久政らが帰国に随行した。七月、朝鮮国の三使が江戸へ来た時、久通は父久元が六月十二…