SEARCH THE ARCHIVE

文書を探す

『旧記雑録』10冊と関連史料(外伝)『島津世禄記』の16,820件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。

検索範囲
島津世禄記
読込量の目安
数行~半頁未満。短い書状、感状、証状、記事、本文省略や同文注記のみ。
半頁~1頁程度。一つの用件をある程度詳しく記すもの、複数項目を含む目録・交名。
1頁を超え3頁未満。複数の用件・事件・人物・地名を含む長文書、詳細な譜記事・合戦記録・日記・知行帳。
特大
冊子頁3頁以上。長大な日記・軍記・系図・知行帳・軍役帳。

52島津世禄記150件を表示

ページ 1 / 2

島津世禄記-A01記事関連史料(外伝)確認度

貴久主受禅於忠兼主事

島津忠昌の子忠治・忠隆・忠兼(のち勝久)へと家督が移った経緯を述べ、忠兼の失政と実久との対立を背景に、島津忠良へ国政再建が託された事情を記す。忠兼は忠良に南郷を与え、さらに忠良の嫡男虎寿丸を養子に迎えるよう求めた。忠良は再三辞退したが命を拒みきれず、虎寿丸を鹿児島へ伴う。大永六年、忠兼が虎寿丸へ家督を譲り、虎寿丸は又三郎貴久と称した。記事は、島津氏の系譜、忠兼と忠良の盟約、貴久への禅譲を一連の家督再編として描き、国人がこれを三州安定の端緒として歓迎したと結ぶ。

登場人物
島津貴久、島津忠兼(勝久)、島津忠良、島津忠昌、島津忠治、島津忠隆、島津実久、本田次郎左衛門尉、桑波田孫六
宛先
キーワード
家督相続、禅譲、養子、国政委任、島津氏系譜
島津世禄記-A02記事関連史料(外伝)確認度

渋川実久之謀事

帖佐城主渋川氏が島津家累代の臣でありながら実久方に通じ、本城・新城を拠点に反抗した事件を扱う。忠良は大永六年十二月に鹿児島を発し、吉田で軍備を整えて両城を攻撃した。実久方の援軍は高尾方面で繰り返し防戦したが敗れ、新城も陥落する。退却者の多くが城濠や柵、火災によって死傷したと戦場の惨状を記し、反逆が自滅を招いたものと評する。戦後、帖佐は昌久に、伊集院は忠良に与えられ、地域支配が再編された。

登場人物
島津忠良、島津実久、渋川筑前守、島津昌久、岩本寿才
宛先
キーワード
実久方、反乱鎮圧、城攻め、所領再編
島津世禄記-A03記事関連史料(外伝)確認度

忠兼主隠伊作後変約事

忠兼が政務から退き伊作へ移るまでの交渉と、その後の盟約破棄を記す。忠兼は若い貴久に国政を委ね、自身は静穏な隠居地を求めた。忠良は市来・伊集院・加治木・帖佐などを示したが、最終的に忠良家累代の地である伊作を譲り、忠兼は鹿児島から移住した。しかし実久が忠兼を擁して再び鹿児島へ迎え、日置・伊集院を攻めたため、忠良と貴久は忠兼との父子の契りと実久方の行動との間で難しい対応を迫られる。忠良は実久の伊作進出を防ぐため夜襲を決行し、妙見に戦勝を祈って伊作東城・西城を攻略した。家督禅譲後も忠兼が実久に利用され、抗争が再燃した過程を示す記事である。

登場人物
島津忠兼(勝久)、島津忠良、島津貴久、島津実久、福昌寺大鷹和尚、園田清左衛門尉
宛先
キーワード
隠居、盟約破棄、実久方、伊作城攻め、家督抗争
島津世禄記-A04記事関連史料(外伝)確認度

忠良陥南郷誅山田某事 付 川上諫勝久後逢害事 并 勝久出奔之事

勝久方へ転じた知覧・川辺の兵や桑波田孫六らに対し、忠良が宴の隙を突いて南郷城を奪い、永吉と改めたことから始まる。勝久が忠良討伐を企てると園田五郎兵衛尉が密告し、貴久は永吉城へ入り、忠良も田布施から急行して守った。帰参した山田式部少輔は過去の背反を後世への戒めとするため伊作で処刑され、漢高祖が丁公を斬った故事によって正当化される。後半では、勝久が末弘伯耆守ら佞臣を重用して政治を乱したため、川上大和守ら旧臣十六人が諫書を出し、末弘を谷山皇徳寺で討つ。勝久は首謀者の川上を殺すが、実久も勝久に背き鹿児島を焼き、勝久は帖佐・祁答院・北原などを経て豊後へ出奔したとする。

登場人物
島津忠良、島津貴久、島津勝久、島津実久、桑波田孫六、山田式部少輔、園田五郎兵衛尉、川上大和守、末弘伯耆守
宛先
キーワード
南郷城、山田氏処刑、丁公故事、川上大和守諫言、末弘伯耆守、勝久出奔
島津世禄記-A05記事関連史料(外伝)確認度

陥伊集院事 付 忠良会実久後陥加世田城事

天文五年、忠良父子が伊集院攻略を進め、伊集院大和守を将として大田原の塁を襲い、神殿・石谷・竹山などの拠点を相次いで服属させた。雨中の進軍時に火光のような瑞兆が現れ、稲荷大明神の加護と解釈されたことも記す。実久勢は鹿児島・谷山から川辺方面へ退き、忠良は実久と会見して、伊集院・鹿児島・谷山と加世田・川辺の交換による和睦を提案したが、実久は応じず、祁答院らと再び謀略を構えた。天文七年、忠良父子は蜘蛛の瑞を得て加世田へ出陣し、本城を急攻して落とし、新城も激戦の末に攻略した。富松左京亮・大山宮内少輔・阿多飛騨守ら実久方の戦死者と、市来備前守ら忠良方の戦死者を列挙し、忠良の祖父久逸が戦死した地で宿怨を晴らした戦いとして位置づける。

登場人物
島津忠良、島津貴久、島津実久、伊集院大和守、桑波田孫六左衛門尉、石谷伊賀守、島津忠将、富松左京亮、大山宮内少輔、阿多飛騨守、市来備前守
宛先
キーワード
伊集院攻略、稲荷瑞兆、実久との和睦交渉、加世田本城、新城、南薩支配
島津世禄記-A06記事関連史料(外伝)確認度

貴久征溪山又陥市来城事

天文八年、貴久・忠良方が溪山方面を攻め、敵方の本城・神前・高城などを順次服属させた経過を記す。溪山駿河守・伊集院山城守・松崎丹後守らが降り、高城主鎌田加賀守も帰順したため、忠良は新納伊勢守らに城地を預けて支配を固めた。六月、貴久は自ら市来へ進み、平城を容易に破って陣所とし、大日寺前の合戦では喜入忠俊・樺山善久・蒲生宮内大輔らが奮戦して勝利した。入来院重聡も援軍を率いて来陣し、佐多・頴娃・蒲生・種子島・肝付・禰寝・伊地知ら諸勢力が加勢した。続いて伊集院忠明らの調略により串木野城・市来本城が帰順する。敵方の新納常陸守らについて忠良は、実久の暴虐に従っただけとして護送・保護を命じ、恩をもって怨みに報いたと評価する。

登場人物
島津貴久、島津忠良、溪山駿河守、伊集院山城守、松崎丹後守、鎌田加賀守、新納伊勢守、喜入忠俊、樺山善久、蒲生宮内大輔、入来院重聡、島津忠将、伊集院忠明、新納常陸守
宛先
キーワード
溪山征伐、市来城攻略、諸城降伏、大日寺合戦、串木野城、帰順者保護
島津世禄記-A07記事関連史料(外伝)確認度

種子島父子不和之事 付 攻加治木事

種子島加賀守恵時と子の左近大夫直時が不和となり、直時が貴久へ援助を求めた事件と、加治木攻めを併記する。貴久は新納伊勢守を大将に小勢を派遣し、軍は硫黄島を経て屋久島へ着く。恵時も種子島から来て身柄を貴久に委ねようとするが、貴久は他人の所領を貪らず、父子を和解させて帰島させたため、種子島氏は以後その恩を重んじた。後半では忠良・貴久が小浜から加治木城を攻め、真幸院の北原兼孝も加勢するが、北原方の周防介・洪江兵庫助ら七十余人が戦死し、島津勢は帰陣する。その後も小浜への侵攻が続いたため、忠良父子は敵を油断させる策として小浜の塁を本田方へ一時的に譲る。従来概要の「最終的な講和・服属」ではなく、初回攻撃の失敗と後日の誘敵策を記した記事である。

登場人物
島津貴久、島津忠良、種子島恵時、種子島直時、新納伊勢守、北原兼孝、北原周防介、洪江兵庫助、樺山善久、本田氏
宛先
キーワード
種子島父子不和、父子和解、加治木攻め、小浜、北原勢戦死、誘敵策
島津世禄記-A08記事関連史料(外伝)確認度

忠廣献市成事 付 重聰假威事

天文十三年、大隅市成の山田加賀守忠廣が市成の地を貴久へ献上し、貴久は忠節を評価して肝付氏へ直ちに与えたことを記す。続いて入来院石見守重聰を論じる。重聰はたびたび軍勢を率いて島津方を助け、忠良はその娘を貴久の妻としたため、川内・伊集院郡山などを領する有力者となった。しかし重聰は姻戚関係と勢威を恃み、狐が虎の威を借るように驕ったため、忠良は郡山を没収して戒めた。それでも改めず、渋谷・蒲生・肝付・本田らと結んで反抗を企てたと批判する。一方、樺山善久は小浜を守って反対勢力に同調せず、その忠節を乱世における忠臣として称賛する。

登場人物
山田加賀守忠廣、島津貴久、島津忠良、入来院石見守重聰、樺山安芸守善久、肝付氏、渋谷氏、蒲生氏、本田氏
宛先
キーワード
市成献上、山田忠廣、入来院重聰、狐假虎威、郡山没収、家臣統制
島津世禄記-A09記事関連史料(外伝)確認度

立貴久定為太守事 付 近衛殿下賜玉札御衣事 并 高祖為藤原姓事

勝久がいったん貴久を後継者としながら讒言によって前約を変えた経緯を踏まえ、天文十四年、島津一門・旧臣が貴久を太守に立てたことを記す。貴久は三郎左衛門尉を称し、家中・領民の支持を得た中興の太守として称揚される。京都の近衛家からは日野左大弁少弼が下向し、玉札と天皇の御衣を伝えた。後半は島津氏の姓氏由緒を論じ、高祖忠久が建久七年に薩摩・大隅・日向三州を与えられ、上洛時に近衛家を頼って惟宗姓から藤原姓へ改めたとの伝承を掲げる一方、承久年間の文書との齟齬は「可考」として留保する。忠久から九代忠国、その子友久を経て貴久へ宗家統が復帰したことを、天命による正統性回復として描く。

登場人物
島津貴久、島津勝久、島津忠久、島津忠国、島津友久、島津忠良、日野左大弁少弼、近衛家当主
宛先
キーワード
貴久太守就任、近衛家、玉札、御衣、惟宗姓、藤原姓、島津氏系譜
島津世禄記-A10記事関連史料(外伝)確認度

本田驕満之事 付 止八幡神社炎上事 并 忠明征飫肥事

清水城主本田紀伊守親康が累代の恩を忘れ、主命や身分秩序を軽視して驕奢・殺戮を重ねたため、家臣が離反し、姫城・清水をめぐる戦いに至ったことを記す。親康は又次郎を無断で左京大夫と称させ、伊地知又八郎・本田又九郎らを殺し、本田刑部少輔は姫城に拠って清水への道を断った。大永七年、本田党と新納近江守が八幡神社を焼いた旧事も挙げられ、貴久は国中へ勧進を命じ、忠良も田を寄進して再建した。天文十七年、北原・渋谷方の侵攻に対し、伊集院大和守忠明が海路で宮内へ入り、小浜・廻城・敷根・上井などを攻略する。清水・姫城の本田勢も降伏し、親康父子は庄内へ退いた。後半では日向飫肥城の島津豊後守を救うため忠明が三百余騎で出陣し、伊東勢の陣を破って二百余人を討ち、翌夜に敵を撤退させたとする。内乱鎮圧、神社再興、飫肥救援を本田氏の不義と忠明の功績を対照させて記す。

登場人物
本田紀伊守親康、本田又次郎、本田刑部少輔、島津貴久、島津忠良、伊集院大和守忠明、樺山安芸守善久、北原氏、島津豊後守、伊東義祐
宛先
キーワード
本田親康、清水城、八幡神社炎上・再建、忠明、飫肥救援、家臣統制
島津世禄記-A11記事関連史料(外伝)確認度

加治木蒲生渋谷和睦之事 付 貴久昇進之事

天文十八年、加治木城主肝付越前守が蒲生・渋谷勢と結び、貴久への礼を欠いたため、貴久が伊集院忠明を進ませて黒川崎に陣を築かせた。肝付方も向かいに陣を構えたが、陣中で火災が起こり、肝付・渋谷・蒲生方は動揺して北郷忠相と菱刈氏を介して降伏を求めた。貴久はこれを赦し、肝付父子・蒲生・渋谷らは清水で謁見する。島津軍が鹿児島へ戻る途中、彼らは酒肴を整えて迎え、和睦成立を祝った。続いて貴久が鹿児島へ移ったことと、天文二十一年六月十一日に従五位下藤原貴久が修理大夫へ任じられた宣旨を収める。軍事対立の解消と官位上昇を結びつけた記事である。

登場人物
島津貴久、伊集院大和守忠明、肝付越前守、北郷讃岐守忠相、菱刈氏、蒲生氏、渋谷氏、広橋中納言、源重保
宛先
キーワード
加治木、肝付越前守、蒲生・渋谷、北郷忠相、和睦、修理大夫
島津世禄記-A12記事関連史料(外伝)確認度

蒲生渋谷攻加治木事 付 貴久主父子征平松事

加治木・帖佐の反島津勢力が再起し、蒲生・渋谷・祁答院・入来院・菱刈・北原らが連携して肝付氏の加治木城を攻めたことから、貴久父子が平松・帖佐方面で長期戦を行った経過を記す。天文二十三年、網掛川、平松、岩野原などで戦闘が続き、貴久は尚久・忠平(のち義弘)らを配置した。十月二日の平松合戦では島津方が大敗して五十余人を失うが、その夜に岩剣城が放棄され、その後平松城も陥る。弘治元年正月、貴久・義久は吉田へ進むものの敵の謀略で再び敗れ、弟子丸播磨守らが戦死し、歳久も負傷した。以後、溝辺・帖佐別府川・山田などで戦いを重ね、忠平・尚久らが奮戦する。四月二日夜、敵は帖佐・新城・山田城を捨てて祁答院へ退去し、北郷・肝付・禰寝らも凱歌を挙げた。従来概要のような一貫した大勝ではなく、複数の敗戦と損害を経て敵方の拠点放棄に至った戦役である。

登場人物
島津貴久、島津義久、島津忠平(義弘)、島津尚久、島津歳久、島津忠将、肝付三郎五郎、蒲生氏、渋谷河内守、祁答院氏、入来院氏、北郷氏、禰寝氏
宛先
キーワード
加治木攻防、平松合戦、島津方敗北、岩剣城、吉田敗戦、帖佐撤退、貴久父子
島津世禄記-A13記事関連史料(外伝)確認度

蒲生退治之事

弘治二年、貴久が蒲生氏の本城と松坂の要害を攻めた戦いを記す。城は険阻で守りも堅かったが、義久に続く若い忠平(後の義弘)が城門へ迫り、敵と組み合って初めて首級を得た。鎧には五本の矢を受けていたとされ、二十二歳の忠平の武勇を強調する。蒲生を支援する菱刈氏に対しても、貴久・義久・忠将・尚久らが出陣し、山地の要害を攻めた。敵の矢で島津方にも損害が出たが、諸軍の奮戦と策によって蒲生城を圧迫し、周辺勢力の連携を崩していく。義弘の初陣的武功を中心に、蒲生退治の軍事過程を描く。

登場人物
島津貴久、島津義久、島津義弘(忠平)、島津忠将、島津尚久、蒲生氏、菱刈氏、北宮内左衛門尉国兼
宛先
キーワード
蒲生退治、忠平初首、城攻め、菱刈氏
島津世禄記-A14記事関連史料(外伝)確認度

島津忠廉住日州飫肥事 付 肝付謀叛之事

島津忠国の弟季久の子忠廉が文明十八年から日向飫肥に居住した由緒と、永禄三年の将軍上使伊勢備後守による島津・伊東間和平交渉を詳録する。上使は飫肥を公領として和睦させようとするが、樺山善久ら島津方は、飫肥が頼朝以来の島津領であり伊東領ではないと反論し、伊東が飫肥へ手を出さないことや大友氏との協調を条件として確認する。続いて貴久は忠廉の孫忠廣の継子として忠平(のち義弘)を飫肥へ送る。忠平は一年後に薩摩へ戻り、その隙に伊東勢が飫肥を囲むと救援を望むが、貴久・義久に止められ、養父忠廣との関係に苦悩する。後半では肝付兼続が貴久への礼を欠き、廻城を奪って伊地知重興・禰寝重長と結び反乱したため、島津軍が竹原山・廻城で戦う。忠将は制止を聞かず敵中へ突入して戦死し、町田忠林ら七十余人も討死した。肝付方は敗れて恒吉へ退く。忠平は忠廣の勧めで薩摩へ帰り、忠廣は北郷八代系の忠親を養子とする。忠親はいったん飫肥城を伊東氏へ渡すが、同年九月に策を用いて再入城した。和平外交、忠平の養子関係、肝付反乱、忠将戦死、飫肥家継承を結ぶ記事である。

登場人物
島津忠廉、島津忠廣、島津忠平(義弘)、島津貴久、島津義久、樺山安芸守善久、伊勢備後守、伊東義祐、肝付兼続、島津忠将、町田加賀守忠林、伊地知重興、禰寝重長、北郷忠親
宛先
キーワード
飫肥和平交渉、伊勢備後守、島津忠廉、忠廣養子、肝付兼続、忠将戦死、北郷忠親
島津世禄記-A15記事関連史料(外伝)確認度

忠平入護真幸院事付北原伊勢介誅伐之事

真幸院の北原氏で当主が没し、家中が分裂して政道が乱れたことから、白坂氏らが領地を島津へ献じ、忠平が飯野へ入った経緯を記す。伊東・相良勢力が北原旧領へ介入するなか、横川城の北原伊勢介父子は島津方へ従わなかった。忠平は霧島山麓を迂回して飯野を確保し、貴久も溝辺から援軍を送る。横川城攻撃では新納忠元、伊集院久春、歳久らが奮戦し、北原父子を討って城を落とした。北原の後裔兼親については罪を許し、伊集院の横川地界に住まわせたとする。真幸院進出と北原氏処分を記す記事である。

登場人物
島津義弘(忠平)、島津貴久、島津歳久、北原伊勢介、北原新介、北原兼親、新納忠元、伊集院久春、白坂氏
宛先
キーワード
真幸院、北原氏、横川城、飯野、家中分裂
島津世禄記-A16記事関連史料(外伝)確認度

貴久主任陸奥守義久主任修理大夫并貴久主剃髪之事付征三ノ山且陥馬越城事

永禄七年に貴久が陸奥守、義久が修理大夫へ任じられた宣旨と、貴久の剃髪を掲げた後、真幸院・菱刈方面の戦いを記す。伊東氏が三山に要害を築いて飯野の忠平を圧迫し、島津方はいったん攻略に失敗して戦死者を出した。続いて菱刈氏が恩に背き相良氏と結んだため、貴久・義久父子は栗野へ出陣し、忠平は飯野から馬越へ進む。稲荷神の瑞火を吉兆として攻撃を開始し、忠平や新納忠元らの奮戦で馬越城を落とした。菱刈方は大口城へ退き、相良の援軍も入ったため、市山・羽月・曾木などに守兵を配置する。官位と宗教的権威を示しつつ、大口攻略へ向かう軍事的足場を築いた記事である。

登場人物
島津貴久、島津義久、島津義弘(忠平)、菱刈氏、相良氏、伊東氏、新納忠元、鎌田政年
宛先
キーワード
陸奥守、修理大夫、剃髪、馬越城、菱刈氏、大口攻略
島津世禄記-A17記事関連史料(外伝)確認度

忠平設伏兵却失勢事付凶徒来市山事

永禄十一年、忠平が大口勢を誘い出すため伏兵を置いたが、戦況が不利となった一連の戦いを記す。忠平は敵将別府安芸守を弓で射倒したものの、川上久朗らが戦死し、自軍は退却を余儀なくされた。歳久・伊集院久治らの援軍も交戦し、忠平は辛うじて曾木城へ入る。その後、忠長・肝付兼寛・新納忠元らが市山から大口城をうかがい、鉄砲と伏兵を交えた戦闘を行う。忠元は負傷中にもかかわらず兵を指揮し、市山へ退却した。勝敗だけでなく、忠平の殿軍、将兵の死傷、鉄砲の使用など戦場の具体像を伝える。

登場人物
島津義弘(忠平)、川上久朗、別府安芸守、島津歳久、伊集院久治、島津忠長、肝付兼寛、新納忠元、鎌田政年
宛先
キーワード
伏兵、敗戦、殿軍、大口合戦、鉄砲、市山
島津世禄記-A18記事関連史料(外伝)確認度

凶徒攻曾木事付侵市山事

相良・菱刈・入来院・祁答院・東郷の諸勢力が連携し、曾木城と市山を攻めた事件を記す。宮原筑前守・佐多久政らが曾木城を守って敵を退け、敵方に数十人の損害を与えた。敵が馬越を経て市山へ進むと、負傷中の新納忠元も出陣し、白坂・永福寺方面で防戦した。敵の赤衣の先鋒に対して鉄砲を放ち、これを倒したことで敵勢は退却した。反島津諸勢力の共同攻撃を、城の守備と鉄砲戦で防いだ短い戦闘記事である。

登場人物
新納忠元、宮原筑前守、佐多久政、相良氏、菱刈氏、入来院氏、祁答院氏、東郷氏
宛先
キーワード
曾木城、市山、反島津連合、鉄砲、防衛戦
島津世禄記-A19記事関連史料(外伝)確認度

大口凶徒再変和而伊東築陣事付忠良逝去之事并大口退治之事

大口勢が和議を破り、伊東氏も飯野・桶比良へ陣を築いたことから再戦となった経緯を記す。島津方は伊東陣を揶揄する狂歌を送り、貴久も出陣を図るが、長雨や兵の動揺のため作戦は進まなかった。その間に大口勢が守兵を襲い、双方に死者を出す。同年十二月、島津忠良が死去し、法号・称号が記される。翌年、忠平の弟家久、新納忠元、肝付兼寛らは二段の伏兵を設け、家久が大口城下で敵を挑発して神尾方面へ誘い込み、大勝して多数を討った。さらに祁答院長野城を攻め、補比良の伊東陣も撤退させる。大口城は兵器・糧食を失って降伏し、相良方から人質が出され、貴久・義久が入城した。忠良の死という家中の転機と、伏兵・鉄砲を用いた大口平定を一体として記す。

登場人物
島津貴久、島津義久、島津忠良、島津義弘(忠平)、島津家久、新納忠元、肝付兼寛、鎌田政年、相良氏、菱刈氏、伊東義祐
宛先
キーワード
和議破棄、忠良死去、伏兵、大口平定、人質、家久
島津世禄記-A20記事関連史料(外伝)確認度

渋谷降参事付貴久主逝去之事并伊東之軍来加久藤敗北之事

渋谷一族が領地を挙げて島津方へ降参し、隈城・平佐・高江・水引・湯田・西方などの支配と地頭配置が再編されたことを記す。元亀二年には貴久が五十八歳で死去し、法号を掲げる。翌年、伊東義祐の大軍が飯野・加久藤へ侵攻すると、忠平は少数の騎兵で木崎原に迎撃した。伊東又次郎・落合源左衛門尉ら主要将を討ち、田原陣も破って伊東軍を三山へ敗走させる。忠平自身も鬼塚原で強敵二人を討ったとされ、島津方の戦死者も列記される。少数軍が大軍を破った戦いを項羽の故事になぞらえ、天の助けと忠平の武功を強調する。渋谷降伏、貴久死去、木崎原合戦という政治・軍事上の大きな転機をまとめた記事である。

登場人物
島津貴久、島津義弘(忠平)、島津家久、島津義虎、伊東義祐、伊東又次郎、落合源左衛門尉、五代友喜
宛先
キーワード
渋谷降参、貴久死去、木崎原合戦、少数軍、伊東氏
島津世禄記-A21記事関連史料(外伝)確認度

肝付退治之事

肝付兼続・禰寝重長・伊地知重興ら大隅の反島津勢力を討った長期戦を記す。義久は歳久らを派遣して小浜・古江方面を攻めるが、戦況は容易に決しなかった。そこで八木昌信が僧に同行して禰寝重長と秘密交渉し、婚姻を含む条件で降参を取り付ける。島津軍は高洲浦から肝付領へ進み、父忠将の仇を討とうとする征久らが先鋒となって敵を破った。一方、早崎の陣は夜襲を受け、家久が多数の傷を負いながら少数の従者と敵を押し返す。牛根城攻めでは平常岡・茶園尾へ陣を進め、断崖に道を築いて三日三夜攻撃し、城方を降伏させた。祢寝方も伊東・肝付勢の攻撃を受けたが喜入季久が防戦する。最終的に肝付・伊地知勢は服属し、人質を出し、新納忠元父子らが牛根城へ入った。秘密交渉、婚姻政策、夜襲、築道による城攻めを通じて大隅平定が進む過程を詳述する。

登場人物
島津義久、島津歳久、島津家久、島津征久、肝付兼続、禰寝重長、伊地知重興、八木昌信、新納忠元、新納忠堯、喜入季久、島津忠長
宛先
キーワード
肝付退治、禰寝降参、秘密交渉、夜襲、牛根城、大隅平定
島津世禄記-A22記事関連史料(外伝)確認度

日州平治之事

日向平定の過程を、高原・野尻・戸崎・石城の攻略を軸に記す。高原城は霧島山東麓にあり、伊東勢が島津領へ侵入する拠点となっていた。義久・忠平らは天正四年に攻撃し、軽率に城へ迫った兵に損害を出したものの、念仏寺を介した講和で城を受け取る。高崎・三山・須木など周辺八か所も島津方へ属した。伊東家中では義祐の暴政に不満が高まり、野尻・戸崎も次々と落ち、義祐は従う者を失って豊後へ逃れた。記事は伊東滅亡を義祐自身の失政の結果と論評する。翌年、長倉氏が石城に拠って旧領回復を図ると、忠棟らが大河に浮橋を設け、鉄砲・矢で包囲した。城内が糧食・水を断たれて降伏すると、島津方は城兵を餓死させず、食料を与えて豊後へ退去させた。軍事攻略と降伏者への処置を通じて日向支配が確立したことを示す。

登場人物
島津義久、島津義弘(忠平)、島津歳久、島津家久、島津征久、伊東義祐、伊東勘解由次官、伊集院忠棟、上原尚近、長倉氏
宛先
キーワード
日向平定、高原城、伊東氏滅亡、石城、浮橋、降伏処置
島津世禄記-A23記事関連史料(外伝)確認度

大友侵日州高城敗北之事

天正六年、大友義統・義鎮父子が豊後・肥後・筑前などの大軍を率いて日向へ侵攻し、高城を包囲した戦いを記す。高城では山田有信を中心とする島津方の守兵が、兵糧や水の不足に耐えて防戦した。義久は諸軍を集め、家久らを前面に出して大友軍と対峙する。十一月の決戦では、島津軍が釣り野伏などの機動的な戦法で敵を誘い崩し、耳川方面へ敗走させた。大友方は多数の将兵を失い、河川や山道で潰走したとされる。戦後、義久は敵陣跡で凱歌を挙げ、敵方に従った日向の住民についても一律に殺すのではなく、罪を問いつつ謝罪・服属を受け入れた。大友氏の大軍を退けた高城・耳川の戦いを、島津氏の九州進出を決定づける勝利として描く記事である。

登場人物
島津義久、島津家久、島津義弘、山田有信、大友義統、大友義鎮(宗麟)、満田宗運
宛先
キーワード
大友氏、高城合戦、耳川合戦、釣り野伏、日向支配
島津世禄記-A24記事関連史料(外伝)確認度

城親政服我旗下事付宝之川内岩穴札矢崎陥事

大友氏の衰勢を受け、肥後熊本城主の城親政が島津方へ服属し、周辺国人も相次いで来附したことを記す。島津方は佐多久政らを熊本へ派遣し、宇土・天草・栖本・大矢野・志岐などの勢力を従える。一方、相良義陽は大友方と結び、日向侵攻にも加担したため、新納忠元らが宝川内を攻め、岩牟礼・釘野の要害をめぐって矢に歌を書いて応酬した。岩牟礼を落とした後、矢崎・網田方面にも進み、城主の自害や降伏を経て拠点を確保する。さらに合志勢との戦いでは伊集院久治らが先陣を切り、多数を討った。肥後国人の服属と、相良・阿蘇系勢力の要害攻略を並行して進めた記事である。

登場人物
島津義久、城親政、佐多久政、新納忠元、新納忠堯、相良義陽、阿蘇惟前、伊集院久治、肝付兼寛、上原尚近
宛先
キーワード
肥後進出、城親政、相良義陽、宝川内、岩牟礼、国人服属
島津世禄記-A25記事関連史料(外伝)確認度

義久主昇進付相良義陽心服之事

義久が従四位下へ昇進した宣旨を掲げた後、長年敵対してきた相良義陽を服属させた経緯を記す。義久は大軍を肥後八代方面へ進め、義弘・征久・歳久・義虎らに各陣を担当させて佐敷周辺を包囲した。兵力と陣構えに圧倒された義陽は津奈木・湯浦・佐敷など五か所を差し出して降伏し、嫡子には島津氏の「忠」字を与えられた。その後、義陽は阿蘇方の甲斐宗運と戦って討死し、相良家中は混乱する。八代の老臣は、領地が他勢力へ渡れば相良家にも薩摩にも害となるとして島津領化を願い、義久は当初辞退したが最終的に受け入れた。八代はいったん義弘へ与えられ、のち平田光宗・伊集院忠棟が支配を担う。服属、主君戦死、領地継承を通じて肥後南部が島津支配へ入る過程を示す。

登場人物
島津義久、島津義弘、島津征久、島津歳久、島津義虎、相良義陽、相良忠房、甲斐宗運、新納忠元、平田光宗、伊集院忠棟
宛先
キーワード
義久昇進、相良義陽、降伏、八代領有、肥後南部
島津世禄記-A26記事関連史料(外伝)確認度

救田尻某救有馬某討捕隆信事

肥後の田尻氏と肥前の有馬氏を救援し、龍造寺隆信を討った経過を記す。隆信に攻められた田尻氏の要請で島津軍が肥後へ進出するが、遠征軍は兵糧・装備が不足して一度撤退した。続いて有馬氏の救援要請を受け、新納忠堯・川上忠堅らを安徳へ送るが、深江攻撃で忠堯が戦死する。翌天正十二年、家久を大将に忠豊・彰久・忠長・忠元ら約千五百騎が島原へ渡り、有馬軍と合流した。数万とされる隆信軍に対し、家久は退却を許さず死戦を命じ、沖田畷で敵を狭隘な地形へ引き込んで撃破する。川上忠堅らが隆信の所在を突き止め、最終的にその首を得た。島津方も多数の戦死者を出したが、敵首三千余を得たとし、守山・神代などの城が落ちた。有馬氏には旧領の一部を返し、島原方面へ島津の守将を置いた。寡兵による大軍撃破と家久の指揮を強調する記事である。

登場人物
島津家久、島津忠豊(豊久)、島津彰久、島津忠長、新納忠元、新納忠堯、川上忠堅、龍造寺隆信、有馬晴信、田尻氏
宛先
キーワード
沖田畷合戦、龍造寺隆信、有馬救援、家久、寡兵、島原
島津世禄記-A27記事関連史料(外伝)確認度

合志隈部宇土動等属我旗下事付高森合心於豊後事并忠平守護代之後称義弘事

天正十二年以降、合志・隈部・宇土をはじめ肥後・筑後・筑前の諸勢力が島津方へ服属し、忠平が守護代となって義弘を称した経緯を中心に記す。義弘は熊本・高森方面へ出陣し、赤星・大津山・和仁・小代・秋月・原田などの国人を従える。阿蘇方が花山を攻めると義久も八代へ進み、甲佐・堅志田・御船を攻略し、反島津の合志氏を降伏させた。高森が豊後方へ通じ、津守城でも反乱が起こると、新納忠元が謀略と急襲でこれを鎮圧する。後半は筑紫・岩屋・宝満・立花方面への遠征を記し、高橋紹運が守る岩屋城を激戦の末に落とす。島津方にも多数の戦死者を出し、紹運の子立花宗茂が抗戦の意志を示すと、島津諸将はその勇を認めて無益な攻撃を避けた。肥後支配の拡大、義弘の守護代就任、筑前方面への進出と岩屋城の激戦をまとめる大部の記事である。

登場人物
島津義弘、島津義久、島津忠長、新納忠元、伊集院忠棟、北郷忠虎、高橋紹運、立花宗茂、筑紫広門、秋月種実、阿蘇惟前、甲斐氏
宛先
キーワード
肥後国人、守護代、義弘、高森、筑紫征伐、岩屋城、高橋紹運
島津世禄記-A28記事関連史料(外伝)確認度

豊後征伐之事 付 九州配分之事 并 秀吉公発向九州事

伊東氏を保護した大友氏が秀吉へ島津征伐を求めたことに対し、義久が先に豊後へ攻め入った経過と、秀吉の九州国分け・征伐命令を記す。入田宗和・志賀道益ら大友方内部の離反を受け、新納忠元が密使を送り、天正十四年十月、義弘を大将とする三万七百余騎が肥後側から豊後へ進む。義弘勢は野尻・高城・津賀牟礼・松尾・鳥嶽などを攻略し、家久勢も日向側から三重方面へ進んだ。秀吉は島津・伊東・大友らの所領を配分する調停案を示して戦争停止を求めるが、島津方は従わず、十二月の戸次川方面の戦いで大友義鎮・仙石秀久・長宗我部信親・十河存保らの軍を破り、信親・存保を討つ。翌天正十五年、秀吉はこれを命令違反として九州征伐軍を進める。島津勢は府内・野上・玖珠方面から撤退を決め、義弘・家久は日向路、歳久・征久・忠元・伊集院久春らは肥後路へ分かれる。清田・三重・梅の隘・坂無・谷山・八代で追撃を受けながら防戦し、忠元らは国人の離反と豊臣方の海陸大軍の接近を見て、人吉を経て薩摩へ帰る。豊後侵攻の進展、戸次川での勝利、秀吉の国分け命令違反、豊臣軍来襲による撤退を一連の転換として描く。

登場人物
島津義久、島津義弘、島津家久、島津歳久、島津征久、島津忠長、新納忠元、伊集院忠棟、伊集院久春、入田宗和、志賀道益、大友義鎮、豊臣秀吉、仙石秀久、長宗我部信親、十河存保、伊勢貞昌、大野久高
宛先
キーワード
豊後征伐、九州国分け、戸次川合戦、秀吉九州征伐、豊後撤退、肥後路・日向路
島津世禄記-A29記事関連史料(外伝)確認度

羽柴美濃守攻高城我軍攻根白坂事付義久主見秀吉公賜宝剣朱印義弘久保亦賜朱印事

秀吉の弟羽柴秀長が大軍で日向高城を包囲し、島津軍が根白坂の豊臣方陣地を攻めた戦いと、その後の降伏・所領安堵を記す。高城では山田有信らが堅守し、義久・義弘・家久・歳久・忠元らが救援に向かった。根白坂の戦いでは豊臣方の堅固な陣と圧倒的兵力に阻まれ、島津方は多数の死傷者を出して退く。安国寺恵瓊らの仲介もあり、義久は秀吉へ和睦を申し入れ、剃髪した姿で出頭した。秀吉は義久に宝剣と朱印状を与え、義弘・久保にも所領・在京料などの朱印を発給し、家臣・城・知行・人質の取り扱いを細かく定めた。忠元は徹底抗戦を唱え、曹操の赤壁敗戦や田単の火牛を引いて寡兵にも勝機があると論じたが、義久は既に結んだ和約を破れば家を亡ぼすとして退ける。忠元も降参し、その忠勇を秀吉に認められて刀・道服・扇を賜った。軍事的敗北から豊臣政権下での島津領再編へ移る転換点を、戦闘・降伏儀礼・朱印状・家臣間の議論を通じて詳述する。

登場人物
島津義久、島津義弘、島津家久、島津歳久、島津久保、新納忠元、山田有信、豊臣秀吉、羽柴秀長、安国寺恵瓊、小寺官兵衛、宮部継潤
宛先
キーワード
根白坂合戦、豊臣秀吉、島津降伏、朱印状、新納忠元、九州平定
島津世禄記-A30記事関連史料(外伝)確認度

分九州賜諸侯事付義久上洛之事

秀吉が博多滞在中に九州諸国を諸大名へ配分した内容と、義久の上洛を記す。筑前・筑後・豊前・日向・肥後などが小早川・立花・黒田・伊東・秋月・相良らへ割り当てられ、島津氏は六州制覇の望みを失ったものの、薩摩・大隅・日向の家領が安定したことを慰めとする。木食応其の督促を受けた義久は鹿児島を発ち、牛屎院・佐敷・八代・高良山・岩屋を経て博多で秀吉に謁見する。その後、海路で下関・厳島・堺を通って京都へ向かい、聚楽第で再び秀吉に会って鞍・馬・長刀などを賜った。細川幽斎からも招待と饗応を受け、在京費用として米五千石を給付する朱印状が示される。豊臣政権による九州再編と、義久が上洛・参勤して新秩序へ組み込まれる過程を具体的な旅程と贈答で伝える。

登場人物
島津義久、豊臣秀吉、羽柴秀長、木食応其、石田三成、伊集院忠棟、島津久保、島津彰久、島津忠長、細川幽斎、小早川氏、立花氏、黒田氏、伊東氏、相良氏
宛先
キーワード
九州配分、義久上洛、豊臣政権、所領安堵、聚楽第、朱印状
島津世禄記-A31記事関連史料(外伝)確認度

佐々陸奥守謀叛之事付義弘昇進并義久賜朱印等之事

肥後一国を与えられた佐々成政が国人・百姓への苛政によって一揆を招き、豊臣政権と九州諸大名がこれを鎮圧した経過を記す。義弘は肥後へ進軍し、相良方に道を阻まれるが、安国寺恵瓊らの調停を経て一揆討伐に参加する。浅野長政・加藤清正らの軍によって反乱が平定され、肥後国人は処刑・所領没収となり、成政も尼崎で切腹を命じられた。記事には秀吉の朱印状が長文で収められ、成政の過去の違背と度重なる赦免、肥後統治の失敗が罪状として列挙される。続いて義弘が上洛して侍従・従四位下に叙され豊臣姓を賜ったこと、義久に摂津・播磨の在京料一万石、義弘に日向諸県郡の所領が与えられたことを村名・石高とともに示す。さらに義久と近衛前久・細川幽斎・紹巴らの和歌・連歌、義久の再上洛と聚楽第付近の屋敷、小田原征伐に従った久保、秀吉からの山中城・小田原落城や奥州平定の戦況通知、義久の祝儀進献までを収録する。肥後国人一揆の処理から島津氏の官位・知行・文化交流・豊臣軍役への編入までを一続きに示す記事である。

登場人物
佐々成政、豊臣秀吉、島津義弘、島津義久、島津久保、伊集院忠棟、安国寺恵瓊、木食応其、浅野長政、加藤清正、細川幽斎、近衛前久、里村紹巴
宛先
キーワード
肥後国人一揆、佐々成政、切腹、義弘叙任、豊臣姓、在京料、小田原征伐
島津世禄記-A32記事関連史料(外伝)確認度

征伐朝鮮事付梅北謀叛并歳久自殺及薩隅日検地之事

朝鮮征伐の背景と軍役命令、梅北一揆と歳久自殺、薩摩・大隅・日向諸県郡の太閤検地・知行配分をまとめた大部の記事である。冒頭では朝鮮八道の位置・州郡数・地理・物産・中国との関係を説明し、薩摩が朝鮮に近いことを踏まえて秀吉が島津氏へ鉄砲・兵船・兵粮・奉公人を整え、名護屋・壱岐・対馬を経て渡海するよう命じた朱印状を掲げる。義久は病のため渡海を免じられ、義弘と嫡子久保が軍勢を率いて朝鮮へ向かった。その間、梅北国兼が君命を偽って薩隅・肥後の浪人らを集め、加藤清正領の佐敷城を奪うが、統制を欠いて鎮圧される。秀吉は島津氏の関与を疑うものの、家康が義弘父子の在陣や人質提出を理由に弁明し、義久の嫌疑は解かれた。一方、秀吉は過去の不参・祁答院での抵抗などを理由に歳久誅殺を命じる。歳久は鹿児島から祁答院へ向かう途中、竜ヶ水で追撃を受け、家臣百余人と抗戦した末に首を差し出す。遺書は主家への反逆を否定し、自身の死で累代の家を守ろうとする趣旨を述べる。後半では細川幽斎を検使として梅北残党・歳久一族の処分、寺社領・代官勘定・蔵入地の整理を進め、石田三成らが三州検地を実施する。文禄四年の朱印状は薩摩二十八万余石、大隅十七万余石、日向諸県郡十二万余石、合計五十七万八千余石を算出し、太閤蔵入、石田・幽斎知行、義弘・伊集院忠棟・島津右馬頭らの知行、寺社領・給人領を村別石高で配分する。朝鮮出兵が国内反乱・粛清・領国再編へ連動したことを、命令書・遺書・検地帳によって示す重要記事である。

登場人物
豊臣秀吉、島津義久、島津義弘、島津久保、梅北国兼、島津歳久、徳川家康、細川幽斎、石田三成、伊集院忠棟、新納忠元、田尻氏
宛先
キーワード
朝鮮出兵、梅北一揆、歳久自殺、太閤検地、三州知行、朱印状、寺社領
島津世禄記-A33記事関連史料(外伝)確認度

義弘主父子軍功之事付久保逝去之後忠恒継家統護朝鮮事并人数帳之事

朝鮮在陣中の義弘・久保父子の軍功、久保の死と忠恒の家督継承、豊臣軍の人数・配置を記す。まず秀吉の軍法を掲げ、放火・人取り・百姓への非分な課役を禁じ、兵粮管理、飢民救済、城郭普請など占領地統治の規則を示す。久保は忠清道で敵を単騎追撃して首級を得たとされる一方、秀吉の朱印状には木曾城・釜山浦・金海・加徳島などを攻守する各大名の人数と配置が詳細に列記される。久保は金海で虎狩りを行った逸話の後、文禄二年九月に巨済で病没し、二十八歳で世を去った。翌年、弟の忠恒(のち家久)が家統を継ぎ、義弘とともに巨済・加徳島へ在陣する。秀吉の求めに応じた虎狩りでは、義弘・忠恒の家臣が危険を冒して虎を仕留め、その肉を献上して褒賞を受ける。さらに文禄四年および慶長二年の軍勢帳・陣立書を大量に収め、小西・加藤・鍋島・島津・黒田・毛利・宇喜多・小早川・船手衆などの人数、釜山浦から各城までの在番、先陣の順序、軍議・注進・築城・野陣の規則を示す。末尾は南原攻略へ向かう陣立に続く。個々の武功や家督継承だけでなく、朝鮮役における全国大名軍の編成・兵数・占領統治を具体的に伝える軍事記録である。

登場人物
島津義弘、島津久保、島津忠恒(家久)、豊臣秀吉、石田三成、小西行長、加藤清正、鍋島直茂、黒田長政、毛利氏、宇喜多秀家、小早川隆景、大山新藤、島津彰久
宛先
キーワード
朝鮮在陣、軍法、軍勢帳、久保死去、忠恒継承、虎狩り、陣立
島津世禄記-A34記事関連史料(外伝)確認度

破番船陥南原事

慶長二年、義弘・忠恒父子が朝鮮沿岸の敵船団を攻撃し、続いて南原城を攻略した経過を記す。巨済付近で日本軍の往来を遮断していた朝鮮水軍に対し、夜襲で百六十余艘を焼き、多数を海際まで追撃したとする。この戦果に秀吉は朱印状で賞し、明軍が進出した場合は軽挙せず対陣して注進せよと命じた。八月、諸将が南原城を包囲すると、義弘は久保を失った経験から忠恒に血気の勇を戒めるが、自ら三首を得たことで忠恒も単騎で城へ突入し、敵が退いた後に戻る。島津勢は首四百二十一を得て鼻を切り、日本へ捷報とともに送ったとされ、秀吉から再び賞状を受ける。その後、父子は泗川の旧館城・新城へ移る。後半には秀吉政権の在番・講和方針を示す朱印状、諸城から釜山浦へ兵粮・鉄砲・玉薬を集める命令、朝鮮王子や貢物を条件とする撤兵案、徳永寿昌・宮木長次の起請文などを収める。海戦・南原攻略の武功と、戦争終結を見据えた講和・撤兵の実務が併記された記事である。

登場人物
島津義弘、島津忠恒(家久)、豊臣秀吉、加藤嘉明、小西行長、石田三成、増田長盛、長束正家、徳永寿昌、宮木長次
宛先
キーワード
朝鮮水軍、南原城、首級、鼻塚、朱印状、在番、講和、撤兵
島津世禄記-A35記事関連史料(外伝)確認度

大明加執之軍於泗川敗北之事

慶長三年の泗川の戦いを記す。明軍は降伏を勧める書状を送り、朝鮮侵攻による疲弊や退路遮断を説くが、義弘は勝敗は戦って決すべきだとして拒絶する。明軍が晋州から泗川旧館を攻め、相良玄蕃助ら百余人が戦死すると、島津軍は新城へ退いて門を閉ざし、敵の攻撃を待った。十月朔日、明軍が大砲・鼓を用いて攻め寄せた際、城内から白狐・赤狐が敵陣へ走り、その後敵陣で火災と混乱が起きたため、義弘・忠恒父子が出撃して崩す。忠恒自身も敵を討ち、島津忠長・寺山四郎左衛門らが追撃し、敵を晋州川へ追い込んだ。記事は敵三万八千七百余を討ったとの首注文を掲げ、島津方の損害はごく少数だったとする。この大勝を稲荷大明神の加護と位置づけ、明軍将が和睦を求め質を差し出したとも記す。五大老は義弘父子の戦功を「無比類」と賞し、秀吉死後の情勢を踏まえて諸城を釜山浦へ引き取り帰朝するよう伝えた。島津家伝における泗川大捷の中心記事である。

登場人物
島津義弘、島津忠恒(家久)、島津忠長、相良玄蕃助、寺山四郎左衛門、毛利輝元、上杉景勝、宇喜多秀家、前田利家、徳川家康
宛先
キーワード
泗川の戦い、明軍、稲荷信仰、首注文、三万八千余、五大老、撤兵
島津世禄記-A36記事関連史料(外伝)確認度

議立花寺沢等救五家事并臨散軍直赴洛謁家康事

泗川勝利後、明・朝鮮軍に包囲された小西行長・大村・五島・有馬・松浦の五家を救い、日本へ撤兵した経過を記す。義弘・忠恒は、五家を見捨てれば日本軍全体の威信を失うとして、立花宗茂・高橋直次・寺沢広高らと軍船を整え、順天方面へ向かう。海戦では火器・矢石が飛び交い、多数の戦死者を出しながら敵船へ乗り移って首級を得、三艘を奪って包囲を解いた。途中、樺山忠征・大野久高ら五百余人が南海島に取り残されるが、伊勢貞昌が主命を得て危険な海路を渡り救援を実現する。秀吉死去後、十一月十五日を期限に撤兵する命令が届き、諸大名は釜山浦で同時に帰国する約束を破って先に去る。義弘父子は孤立するが、忠豊が釜山城に残って迎え、無事に博多へ帰還する。伏見で五大老に秀吉の死を弔った後、泗川の功によって出水・高城・加治木などの知行、義弘への正宗、忠恒への長光と少将任官が与えられ、詳細な知行目録が掲げられる。七年間の朝鮮軍役の終結、同僚軍の救出、撤兵時の危機、帰国後の恩賞を一体として記す記事である。

登場人物
島津義弘、島津忠恒(家久)、小西行長、立花宗茂、高橋直次、寺沢広高、伊勢貞昌、樺山忠征、大野久高、島津忠豊、豊臣秀吉、徳川家康
宛先
キーワード
五家救援、順天海戦、南海島救出、朝鮮撤兵、秀吉死去、知行恩賞
島津世禄記-A37記事関連史料(外伝)確認度

忠恒主手誅忠棟事付就其子久虎構城而相攻之事

忠恒が伏見の茶亭で伊集院忠棟を自ら討ち、その子久真(久詮)が都城を中心に反乱した庄内の乱を記す。忠棟は秀吉から薩隅日三州内八万石を与えられて権勢を誇り、主家を凌ぐ陰謀があると見なされた。忠恒は忠棟を斬るが、太閤朱印を受けた者への私刑であったため高雄山で罪を待ち、家康・五大老の裁定で許される。久真は財部・安永・山田・志和池・梅北など都城周辺の要害に籠り、忠恒軍は山田城を本陣として攻める。家康は早期成敗を促す一方、兵を損なわぬよう命じ、山田城攻略を賞した。慶長五年、山口直友の仲介によって忠恒・義久が起請文を出し、久真の奉公復帰と将来の公正な処置を誓う。三月に降伏して乱は終結し、家康もこれを認めたが、記事は久真を帖佐、母を阿多に置き、なお反逆の危険が残ると評する。主従内部の権力闘争が徳川家康の調停下で収束する過程を示す。

登場人物
島津忠恒(家久)、島津義弘、島津義久、伊集院忠棟、伊集院久真、徳川家康、井伊直政、伊奈昭綱、喜入久正、山口直友
宛先
キーワード
伊集院忠棟、庄内の乱、伊集院久真、起請文、徳川家康、和睦
島津世禄記-A38記事関連史料(外伝)確認度

義弘主強与石田之謀事

関ヶ原合戦で義弘が石田三成方に属し、敗戦後に敵中突破して帰国した経過を記す。義弘は本来、家康と秀頼への忠節・相互不害を誓う起請文を交わし、伏見城を守ろうとしたが、鳥居元忠・内藤家長に入城を拒まれ、身を守るためやむなく石田方へ加わったと弁明される。九月十五日の関ヶ原では小早川勢の寝返りで西軍が崩れ、島津勢は二百人に満たない小勢となった。正面突破の退却で島津豊久が身代わりとなって戦死し、阿多盛淳も義弘を名乗って敵を引き受ける。川上忠兄弟らは追撃する赤備えの将を鉄砲で落馬させ、義弘を近江・伊勢・伊賀・大和・河内から住吉・大坂へ逃す。大坂では義久の娘、忠恒の母ら人質を船に乗せ、薩摩へ帰還した。西軍加担を義弘の本意ではないと説明しつつ、退き口での家臣の犠牲と武勇を顕彰する記事である。

登場人物
島津義弘、徳川家康、石田三成、島津豊久、阿多盛淳、鳥居元忠、内藤家長、小早川秀秋、井伊直政、川上忠兄弟、小西行長、安国寺恵瓊
宛先
キーワード
関ヶ原合戦、島津の退き口、伏見城、石田三成、豊久戦死、人質救出
島津世禄記-A39記事関連史料(外伝)確認度

稲津起兵事 付 水俣船軍之事

関ヶ原合戦後、義弘が日向美々津へ帰着した時、伊東氏旧臣で清武の宰である稲津掃部助が黒田長政の命と称して兵を挙げ、穆佐城を奪おうとした事件を記す。稲津は使者が帰らないことを怪しみ、先に宮崎城を落として城代権藤平左衛門とその子らを討ち、穆佐内的野村へ侵入した。十月四日には穆佐城を攻めるが失敗して退き、追撃を受け、のち慶長七年に稲津父子三人が清武で処刑されたと注記する。後半では、加藤清正が小西行長領の宇土・八代を奪おうとしたため、小西美作守が義久へ救援を求める。義久は島津図書頭忠長・忠倍父子を水俣へ送り、佐敷浦で加藤方の井口伊賀介率いる船団と戦わせた。島津船の多くが散るなか、竹内備前守実房と甥納右衛門が小船で救援し、鉄砲を撃ち返して忠長父子を救った。関ヶ原後の日向騒乱と肥後水軍戦を併記する。

登場人物
島津義弘、稲津掃部助、黒田長政、権藤平左衛門、島津義久、加藤清正、小西行長、小西美作守、島津忠長、島津忠倍、井口伊賀介、竹内備前守実房、竹内納右衛門
宛先
キーワード
稲津掃部助、穆佐城、宮崎城、関ヶ原後、水俣船軍、佐敷浦、加藤清正、小西氏
島津世禄記-A40記事関連史料(外伝)確認度

義久主義弘不和之事付忠恒上洛之事

関ヶ原で西軍に属した義弘と、これを責める義久の不和、忠恒の上洛による島津家存続の確定を記す。義久は家康との誓約に反して石田方へ付いた義弘を非難し、義弘は伏見城への入城を拒まれてやむなく従ったと弁明する。寺沢広高・山口直友・井伊直政らは義久・忠恒へ事情説明と出仕を求め、本田正信らも義弘の本意ではないこと、関ヶ原での退却が武名を高めたことを伝えて安心させる。慶長六年には正信・直友が薩摩・大隅・日向諸県郡の安堵と義弘への取り成しを誓い、翌年家康も所領・家督を変えない旨の誓書を与える。義久自身の上洛は伊集院久真党の再起や家康への畏れから進まず、重臣らは家督を受けた忠恒が代わって謝罪すべきだと進言する。忠恒は出立前に久真とその母・弟・一党を各地で誅し、兵庫で福島正則の斡旋を得て伏見へ入り、家康へ謁見した。慶長八年に帰国し、重臣を集めて家の安定を祝う。敗戦後の弁明、徳川重臣の仲介、所領安堵、反対勢力の粛清、忠恒の出仕という政治交渉の全過程を示す。

登場人物
島津義久、島津義弘、島津忠恒(家久)、徳川家康、石田三成、井伊直政、本多正信、山口直友、寺沢広高、新納旅庵、伊集院久真、福島正則
宛先
キーワード
義久義弘不和、関ヶ原後処理、所領安堵、起請文、忠恒上洛、伊集院氏粛清
島津世禄記-A41記事関連史料(外伝)確認度

忠恒主賜松平氏号薩摩守家久事付琉球征伐之事且義久主逝去之事

忠恒が家康・秀忠から松平氏と家康の「家」の字を与えられて家久と改名し、琉球を征服した後、義久が死去するまでを記す。琉球が従来の貢納を怠ったとして、慶長十四年、樺山久高を大将、平田増宗を副将とする三千余人・百余艘を派遣する。軍は奄美大島・徳之島を制圧し、沖縄本島では那覇港の防備を避けて上陸、首里城を囲んで尚寧王・三司官の降伏を受けた。家康・秀忠は黒印状・書状で戦功を賞し、琉球を家久の領知と認める。翌年、家久は尚寧王を伴って駿府・江戸へ参府し、王とともに進献し、刀剣・衣類など多くの賜物を受ける。尚寧王は赦されて帰国した。慶長十六年、義久が七十九歳で死去し、多数の殉死者が出る。秀忠は弔使と銀千枚を送り、家久は定家色紙・刀剣・茶壺など義久の遺物を献じた。島津氏の徳川大名化、琉球支配の成立、義久時代の終結を結ぶ記事である。

登場人物
島津忠恒(家久)、徳川家康、徳川秀忠、樺山久高、平田増宗、尚寧王、三司官、島津義久、島津義弘、本多正純
宛先
キーワード
松平氏、家久改名、琉球征伐、尚寧王、駿府参府、義久死去
島津世禄記-A42記事関連史料(外伝)確認度

秀頼公与家康公不和之事付大坂之城陥事

大坂の陣に際し、豊臣秀頼が家久へ援軍を求めたのに対し、島津家が徳川方への忠節を選んだ経過を記す。慶長十九年、大仏供養をめぐる家康との対立から、秀頼・大野治長らは家久に上洛を促し、重代の正宗脇指まで贈って加勢を求めた。義弘は、秀吉によって九州の所領を削られた過去と、関ヶ原後に家康が島津領を安堵した恩を比較し、家康へ従うべきだと説く。家久はその意見を受け、豊臣家への旧恩を認めつつも徳川への多年の恩義に背けないとして脇指を返した。冬の陣では出兵準備中に大坂と徳川方が和睦し帰国する。翌慶長二十年、再戦の報を受けて家久は一万三千余を率いて上洛を急ぐが、途中で大坂城落城、秀頼・淀殿・大野らの自害を知らされる。家久は尼崎から伏見へ赴いて家康に謁見し、参陣の遅れにもかかわらず労われ、馬を賜った。大坂浪人が秀頼生存を称して加治木へ来た事件では、義弘が警固を付けて京都へ送る。元和二年の家康死去までを記し、島津家の徳川政権への最終的な帰属を示す記事である。

登場人物
豊臣秀頼、徳川家康、島津家久、島津義弘、大野治長、織田有楽斎、本多正純、山口直友、福島正則、淀殿
宛先
キーワード
大坂冬の陣、大坂夏の陣、豊臣秀頼、徳川方、援軍要請、大坂城落城
島津世禄記-A43記事関連史料(外伝)確認度

家久主任参議事付就智仁親王催歌会事并義弘主逝去之事

家久の参議任官、八条宮智仁親王邸での和歌会、義弘の死去を記す。元和三年、家久は二条城で秀忠から参議任官を告げられ、左近衛権中将兼参議となる。のち参内に供奉し、琴と尺八を賜った。元和五年、家久は智仁親王邸で歌会開催を願い、親王・公家・歌人らが「治まれる世」と和歌の道を題に詠んだ歌を列挙する。家久自身の歌も収録され、島津氏が京都公家文化へ参入した様相を示す。同年、八十五歳の義弘が病に伏すと、秀忠は見舞使を送り、京都から医師寿徳庵玄由が下向するが効なく、七月二十一日に死去する。多数の家臣が殉死し、在京中の家久は帰国の暇を得る。秀忠は花房正成を弔使として派遣し、香典銀千枚を与えた。武功で知られる義弘の晩年と、家久代の官位・宮廷文化への展開を対照的に記す。

登場人物
島津家久、徳川秀忠、八条宮智仁親王、日野輝資、中院通村、西洞院時慶、島津義弘、寿徳庵玄由、花房正成
宛先
キーワード
参議任官、智仁親王、和歌会、宮廷文化、義弘死去、殉死
島津世禄記-A44記事関連史料(外伝)確認度

家久主妹得赦事 付 家久主父子詣江城事 并 家久主任権中納言事

元和五年、家久の嗣子忠元(のち光久)の弟忠平が四歳で江戸幕府の人質となっていたこと、家久の妹が赦免されて帰国したことを記す。妹は娘を松平河内守定行へ嫁がせた後、京都・大坂を経て薩州谷山へ着いた。寛永元年十二月、家久は妻妾、嗣子忠元、弟久貞らを伴って江戸へ赴き、その後忠平は帰国を許された。翌年、忠元の母は江戸屋敷で死去する。寛永三年八月、家久は秀忠の命により権中納言・従三位へ叙任され、宣旨を収める。同年九月、家光が二条城行幸を迎えるため参内した際、家久は騎馬で供奉し、還御後に勅賜の馬を受けた。人質の解除、家族を伴う江戸参府、官位昇進、二条城供奉をまとめた記事である。

登場人物
島津家久、島津忠元(光久)、島津忠平、島津久貞(久直)、家久の妹、松平定行、徳川秀忠、徳川家光、中御門宣衡、藤原時長
宛先
キーワード
家久妹赦免、人質忠平、江戸参府、権中納言、従三位、二条城行幸
島津世禄記-A45記事関連史料(外伝)確認度

将軍渡御於家久館事

寛永七年四月、将軍家光と大御所秀忠が江戸桜田の家久邸へ相次いで御成した際の記録抜書である。十八日の家光御成では、古田織部の指図を写した数寄屋で茶を供し、楚石の掛物、平野肩衝、高麗茶碗、利休作茶杓、信楽水指、車軸釜などの道具を列挙する。鎖の間・御寝殿・書院・会所・湯殿に至るまで、床飾、絵画、香炉、硯、筆架、違棚、台子、弓矢・甲冑・鏡、花入と池坊の立花などを図とともに詳細に記す。家久・嗣子又三郎(光久)・又十郎・越後守らは刀剣・小袖・銀・生糸・馬などを拝領し、将軍へも正宗・左文字等の刀剣や小袖・黄金・馬を進献する。家臣も縁側で礼を行い、島津一門・重臣への拝領品が個別に記録される。会所では能八番と乞能が催され、役者への小袖・金銭の配分、式三献・七五三の膳が整えられた。さらに琉球から美麗な少年楽人を呼び、琵琶・琴・三線・笛・鼓などによる異国の音楽を奏し、家光を喜ばせた。二十一日の秀忠御成も同様に茶・饗応・能・琉球楽が行われ、拝領・進献品と参加家臣が記される。近世初期大名邸の最高格式の接遇、茶の湯・室礼・能・琉球文化の政治的演出、将軍家と島津家の贈答関係を具体的に復元できる儀礼資料である。

登場人物
徳川家光、徳川秀忠、島津家久、島津光久、古田織部、丹羽長重、加藤嘉明、酒井忠世、伊勢貞昌、島津久元、島津久慶、琉球楽人
宛先
キーワード
将軍御成、大御所御成、茶の湯、室礼、贈答、能、琉球楽、江戸屋敷
島津世禄記-A46記事関連史料(外伝)確認度

家久主転任大隅守并又三郎忠元兄弟加冠之事付将軍改旧印賜其目録事

寛永八年、家久の大隅守任官と嫡子忠元の元服・光久改名、将軍による旧領安堵を記す。秀忠は家久を大隅守に任じ、忠元に松平氏と「光」の偏諱を与えて松平薩摩守光久とし、侍従・従四位下に叙した。弟たちも式部大輔・玄蕃頭に任じられ、父子兄弟は秀忠・家光から国綱・左文字・長光などの刀剣を拝領する。これに対する謝礼として、家久・光久・弟たちが将軍家・大御所および酒井・土井・永井・内藤ら幕閣へ贈った太刀・小袖・銀の明細を列記する。秀忠死去後の寛永十一年、島津家は薩摩・大隅・日向諸県郡・琉球諸島を合わせ七十三万二千余石とする領地目録を提出し、家光は旧朱印を改め、薩摩・大隅・諸県郡六十万五千石余と琉球十二万三千七百石の領有を認める朱印状を与えた。光久への代替わり準備と、幕府公認の島津領域・石高を示す記事である。

登場人物
島津家久、島津光久、徳川秀忠、徳川家光、島津久貞、島津忠平、酒井忠世、土井利勝、永井尚政、内藤忠重
宛先
キーワード
光久元服、偏諱、大隅守、薩摩守、刀剣拝領、領地目録、朱印改め
島津世禄記-A47記事関連史料(外伝)確認度

中納言家久主薨逝之事付光久主得家督事

家久の長患いと死去、光久の家督相続を記す。寛永十三年以降、家光は久志本式部少輔・慶祐法印・意徳法眼ら医師を薩摩へ送り、さらに上使と鶴を賜って家久を見舞った。家久は病床で、徳川三代の厚恩に死節で報いることができない旨を土井利勝へ伝えさせる。寛永十五年、島原・天草一揆の討伐を命じられた光久は有馬まで赴くが、松平信綱から父の看病のため帰国するよう勧められ、鹿児島で父子再会を果たす。その後家久が死去すると、家光は能勢頼次を弔使として銀千枚を贈る。喪中の光久は江戸へ赴き、土井・酒井・阿部らから家久の分国をそのまま相続するとの上意を受け、家臣団にも光久をよく補佐するよう命が伝えられた。光久は正宗・貞宗、後鳥羽院らの和歌懐紙、瀬戸肩衝など父の遺物を家光へ献じる。幕府の医療・弔慰と島津家の代替わり儀礼を詳述する。

登場人物
島津家久、島津光久、徳川家光、久志本式部少輔、慶祐法印、意徳法眼、土井利勝、酒井忠勝、阿部忠秋、松平信綱、島津久元、島津久慶
宛先
キーワード
家久病気、島原の乱、家久死去、弔使、光久家督、遺物献上
島津世禄記-A48記事関連史料(外伝)確認度

光久主為家督帰国并賜上使事付金山之事

光久が家督を継いで帰国し、幕府上使を迎えたことと、永野金山の発見・献上を記す。寛永十六年、家光は光久に亡父家久の跡を継ぎ、国を治め民を安んずるよう命じ、銀千枚・衣服百領・馬を与えた。光久は江戸で謝礼を済ませ、六月に鹿児島へ帰城して家臣・領民の歓迎を受ける。その後再び江戸へ参府中、伊佐郡祁答院永野郷で内山与右衛門が川砂から砂金を得たとの報告が届く。幕府の命で採掘を進めると産金が続き、寛永十八年に砂金九百八十九両余を家光へ献上した。翌年、家光は金山を光久へ賜い、北郷久加が金山奉行となった。代替わり後の統治承認と、新たな鉱山資源の幕府への報告・献上・領有公認を結びつける記事である。

登場人物
島津光久、徳川家光、伊勢貞昌、入来院重国、内山与右衛門、阿部重次、北郷久加、島津久元
宛先
キーワード
光久家督、帰国、上使、砂金、永野金山、献上、金山奉行
島津世禄記-A49記事関連史料(外伝)確認度

琉球国八重山島異国人来事

琉球国八重山島の地理と、異国船の漂着・処置を記す。八重山島は首里から百七十四里離れ、南風で渡り北風で帰るため往復は年一度ほどと説明する。寛永十六年八月十八日、石垣港へ福州の船が漂着し、大明人十四人・南蛮人六十八人が乗っていた。通事は、呂宋から高砂へ渡る途中に逆風を受けて漂着したと述べる。島役人は彼らを上陸させて保護し、翌年七月十二日に琉球側から薩摩・鹿児島へ送った。馬場利重が江戸幕府へ経緯を報告すると、家光は八重山島役人の働きを賞し、漂着者が載せてきた宝物を褒美として島役人へ与えた。薩摩藩の琉球支配下における漂着外国人の保護・移送・幕府報告・褒賞を示す記事である。

登場人物
島津光久、徳川家光、馬場三郎左衛門尉利重、八重山島役人、通事、大明人十四人、南蛮人六十八人
宛先
キーワード
八重山島、異国船漂着、福州船、呂宋、高砂、大明人、南蛮人、幕府報告
島津世禄記-A50記事関連史料(外伝)確認度

島津家系図之事付若君誕生之事

島津家系図の幕府提出と、将軍家光に男子が誕生した際の祝賀を記す。寛永十八年、光久が帰国の暇を得た折、太田資宗から諸大名同様に島津家の系図を上覧へ備えるよう命じられる。光久は帰国後、島津久慶・久通・川上久国・喜入忠政・野村元綱らに累代系図の校訂を命じる。並行して家光の若君誕生を祝い、江戸留守居の島津久雄が若君・家光へ刀剣・黄金・産衣などを献じ、光久の嗣子虎寿丸も祝儀を進める。完成した系図一巻は川上久国らが江戸へ持参し、太田資宗の閲覧・再検討を経て、過去の家光・秀忠御成記録とともに受領された。家の由緒を幕府へ公証させる系譜編纂と、将軍家の継嗣誕生を祝う大名儀礼を併記する記事である。

登場人物
島津光久、徳川家光、太田資宗、島津久慶、島津久通、川上久国、喜入忠政、野村元綱、島津久雄、虎寿丸
宛先
キーワード
島津家系図、上覧、系譜編纂、若君誕生、祝賀、御成記録